鑵子塚古墳
かんすづかこふん
[現在地名]御所市大字柏原
柏原集落西方、永田池の南西にあり、俗称鑵子山。全長約一五〇メートル、前方部幅約九〇メートル、後円部径約一〇〇メートル、周濠跡と数基の陪塚をもつ前方後円墳。国見山(二二九・四メートル)北麓丘陵端に築造、桜井市の茶臼山古墳と同じく典型的な丘尾切断の形状を呈する。
寛政九年(一七九七)の「陵墓志」は孝安天皇の玉手丘上陵とし、蒲生君平の「山陵志」は武内宿禰の墓と説き、正徳三年(一七一三)の「和漢三才図会」や慶応元年(一八六五)の「聖蹟図志」は日本武尊の白鳥陵と記す。
鑵子塚古墳
かんすづかこふん
[現在地名]五條市近内町
近内集落南、向山丘陵最高所、標高二二三メートルの位置にある。直径約八五メートル、高さ一〇メートル、二段築成の円墳で、周濠の痕跡も認められる。山頂の自然地形を利用しているとはいえ、県下最大級の円墳。外部施設としては墳丘全体に葺石が施されており、円筒埴輪列の立ったことも推定される。
鑵子塚古墳
かんすづかこふん
[現在地名]高取町大字寺崎
乾城古墳の北西約二〇〇メートル、貝吹山より南に派生する尾根の端部にある直径二四メートル、高さ約七メートルの円墳。南に開口する石室は片袖式の横穴式石室。玄室の長さ四・一五メートル、幅は奥壁で三・一五メートル、袖部の長さ一・二三メートル、高さ四・五メートル、羨道の幅一・四メートル、長さ二メートル、高さ一メートル。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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