長屋王の変(読み)ながやおうのへん

共同通信ニュース用語解説 「長屋王の変」の解説

長屋王の変

長屋王ながやおうの変 天武天皇の孫の長屋王は、律令りつりょう制度を確立した藤原不比等ふひとの死去後に政権を握り、藤原氏をおさえようとしたが、不比等の4子から謀反があると密告され、729年、妻子とともに自殺に追い込まれた。その後、藤原家の有力者が相次いで病死し、長屋王のたたりと恐れられた。

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改訂新版 世界大百科事典 「長屋王の変」の意味・わかりやすい解説

長屋王の変 (ながやおうのへん)

729年(天平1),藤原氏によって長屋王を打倒するためにしくまれた政治的陰謀事件。727年(神亀4)閏9月,聖武天皇夫人藤原光明子との間に某王(基王とも)が誕生した。この王は次の天皇たるべく翌々月に立太子したが,翌728年9月夭折した。ところがそのころ,聖武天皇のもう一人の夫人県犬養広刀自が安積(あさか)親王を出産し,藤原氏に衝撃を与えた。聖武唯一の皇子である安積親王はやがて立太子し即位する公算が大きく,そうなると藤原氏は将来権力の座を追われかねない。安積親王を暗殺して光明子が次の皇子を出産するのを待つことも考えられるが,いかにも強行手段である上に皇子が生まれるかどうかわからず,生まれても夭折しない保証はないという不安があった。そこで藤原氏は,光明立后の道をえらんだ。日本古来の伝統的な皇后地位からすると,安積親王が皇太子になっても十分対抗しうるし,場合によっては次の女帝となることも可能であったからである。しかし,それには問題があった。皇后には伝統的に皇族出身者がなるため,光明子の立后には当然反対が出ると予想される点である。その反対の中心人物と目されたのが,当時左大臣として廟堂首班であった長屋王である。そこで藤原氏によって,長屋王の打倒が計画された。729年2月10日,左京人の漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまんど)の2人が,長屋王はひそかに左道を学び,国家を傾けんとしていると密告した。その夜ただちに長屋王の宅が包囲され,翌日訊問が行われ,2月12日には早くも自尽が命ぜられた。弟の鈴鹿王はじめ大部分はゆるされた。事件の動揺がおさまった6月,藤原麻呂が大夫(長官)である左京職から,背中に〈天王貴平知百年〉という瑞字のある亀が献上され,これを機に8月に天平と改元され,つづいて光明子の立后が実行された。ここに藤原氏は目的を達したのである。以後,藤原氏は光明皇后とその4兄弟を中心に政界を領導していった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長屋王の変」の意味・わかりやすい解説

長屋王の変
ながやおうのへん

729年(天平1)2月に起こった政変。左大臣長屋王が謀反を計画しているとの告発を受け、兵が王邸を包囲し訊問の結果、王は自殺。妻の吉備内親王(きびないしんのう)、子の膳夫王(かしわでおう)、桑田王、葛木王(かずらきおう)、鉤取王(かぎとりおう)らも後を追い、夫妻は生馬(生駒)山(いこまやま)に葬られた。縁坐した者も少数はいたが、まもなく王の兄弟姉妹、妻子をはじめ関係者は許され、事件は急速に集結した。これは聖武天皇と夫人(ぶにん)藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)(のちの光明皇后)との間に生まれた皇太子基王(もといおう)(某王との説も)が前年に死去する一方、別の夫人県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が安積親王(あさかしんのう)を生んだ状況下で、安積立太子を阻むとともに第2子誕生を期待して、光明子立后(りっこう)をめざす藤原氏が、反対派と目される長屋王を排除するために起こした事件とみられる。同年8月、神亀(じんき)から天平に改元したのち光明子は皇后となった。なお長屋王邸は平城京左京3条2坊にあり、事件後それは国家に没収され、立后に伴って光明皇后の宮になったことが、出土木簡(もっかん)によって判明している。

[舘野和己]

『寺崎保広著『長屋王』(1999・吉川弘文館)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長屋王の変」の解説

長屋王の変
ながやおうのへん

奈良前期の藤原氏による政敵排斥事件。藤原不比等(ふひと)の没後,長屋王が太政官の首班になるが,729年(天平元)2月中臣東人(なかとみのあずまひと)らが王の謀反を密告し,藤原宇合(うまかい)らが王の宅を包囲した。舎人(とねり)親王らの審問ののち王は自殺し,正室吉備内親王とその子も自殺した。変の背景には,その直前に聖武天皇の夫人藤原安宿媛(あすかべひめ)(光明子)所生の皇太子が夭折し,もう1人の夫人県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が安積(あさか)親王を出産したことがある。藤原氏は安積の即位阻止のため安宿媛の立后をはかり,その障害になる王を排除したと考えられる。皇女を母にもつ長屋王の血統から,大化前代の皇位継承原則に照らすと,宮子所生の聖武天皇に劣らず長屋王の即位がありえたことも要因であろう。

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旺文社日本史事典 三訂版 「長屋王の変」の解説

長屋王の変
ながやおうのへん

奈良前期,天武天皇の孫で,高市 (たけち) 皇子の第1皇子である長屋王(684〜729)が謀反の疑いで自殺させられた事件
長屋王は聖武天皇即位とともに左大臣となり藤原氏に対抗する勢力となった。729年,王は左道(邪道)を学び国家を傾けようとしているという密告により兵士に邸宅を囲まれ,聖武天皇の命で妻子とともに自殺。光明子立后をはかる藤原氏の陰謀の犠牲になったと考えられる。

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百科事典マイペディア 「長屋王の変」の意味・わかりやすい解説

長屋王の変【ながやおうのへん】

長屋王

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世界大百科事典(旧版)内の長屋王の変の言及

【聖武天皇】より

…ちょうどそのころ県犬養広刀自に安積親王が生まれたため,将来権力の座を奪われることをおそれた藤原不比等の4子たちは,場合によっては即位も可能な皇后の伝統的地位に目をつけ,夫人安宿媛を皇后にしようとした。そして,これに強硬に反対すると予想される長屋王を陰謀によって729年2月に葬り(長屋王の変),同年8月に光明立后を強行した。 天皇の母の宮子は長く病にふしていたが,唐より帰国した玄昉(げんぼう)が看病してこれを回復させ,天皇は初めて母に対面することができた。…

【奈良時代】より

…しかし皇后は律令の規定によって皇族出身に限られているため,皇親の立場から立后に強く反対することが予測される長屋王をまず排除する必要があると考え,無実の罪をきせて王とその妃吉備内親王らを自殺させた。729年の長屋王の変である。やがて事件が落着すると,瑞亀の献上によって天平と改元,ついで安宿媛は仁徳皇后磐姫の先例にならうという宣命とともに,臣籍ではあるが聖武天皇の皇后となった。…

※「長屋王の変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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