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聖武天皇 しょうむてんのう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

聖武天皇
しょうむてんのう

[生]大宝1(701).大和
[没]天平勝宝8(756).5.2. 奈良
第 45代の天皇 (在位 724~749) 。名は天璽国押開豊桜彦尊 (あめしるしくにおしはるきとよさくらひこのみこと) ,また首 (おびと) 。文武天皇の第1皇子,母は藤原不比等の娘,尊称太皇太后宮子娘。

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デジタル大辞泉の解説

しょうむ‐てんのう〔シヤウムテンワウ〕【聖武天皇】

[701~756]第45代天皇。在位724~749。文武天皇の第1皇子。名は首(おびと)。藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘光明子を皇后とした。仏教を保護し、東大寺のほかに、諸国に国分寺国分尼寺を建立。遺品は正倉院御物として現存。

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百科事典マイペディアの解説

聖武天皇【しょうむてんのう】

奈良時代の天皇。文武(もんむ)天皇の子。724年即位。皇族皇后の慣習を破り藤原不比等(ふひと)の娘安宿媛(あすかべひめ)を皇后(光明(こうみょう)皇后)とした。(701-756)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

聖武天皇 しょうむてんのう

701-756 奈良時代,第45代天皇。在位724-749。
大宝(たいほう)元年生まれ。文武天皇の皇子。母は藤原不比等(ふひと)の娘宮子。元正(げんしょう)天皇の譲位をうけ即位。蝦夷(えみし)の反乱,長屋王の変,天然痘の大流行,藤原広嗣(ひろつぐ)の乱など,政情・世情が安定せず,たびたび都をうつした。仏教に帰依(きえ)して諸国に国分寺,国分尼寺をたて,東大寺の大仏造立をすすめた。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8年5月2日死去。56歳。墓所は佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)(奈良市)。別名は首(おびとの)皇子。天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)。
【格言など】夫(そ)れ,天下(あめのした)の富を有(たも)つは朕(われ)なり。天下の勢を有つは朕なり。この富と勢とを以てこの尊き像を造らむ(「続日本紀」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

聖武天皇

没年:天平勝宝8.5.2(756.6.4)
生年:大宝1(701)
奈良時代の天皇。文武天皇の皇子。母は藤原不比等の娘宮子。諱は首。和銅7(714)年皇太子となる。元明天皇は聖武15歳のときに元正天皇に譲位を行った際,皇太子に位を譲るには,年歯幼稚であるとしている。神亀1(724)年,元正から譲位されて天皇即位。以後天平感宝1(749)年,娘の阿倍内親王(のちの孝謙天皇)に譲位するまで26年間,政治を執ることとなった。聖武天皇は不比等の娘光明子を妃として,皇子に基王を得,また阿倍皇女を得た。また県犬養広刀自を夫人とし,皇子に安積親王,井上内親王,不破内親王を得たとする。このうち基王は皇太子になったものの早世し,安積親王も天平16(744)年没するなど皇子には恵まれなかった。また,聖武の即位に当たっては,光明子との関係から藤原氏の強い協力のもとに達成されており,その過程では神亀6(729)年,対抗勢力であった長屋王とその子を自殺させるなど強引な謀略が行われた。また,在位中の前半は元正天皇を太上天皇としてかかえ,天平8,9年の天然痘の大流行で藤原武智麻呂ら4兄弟を失うなど,その政権の基盤はかならずしも安定しなかった。天平11年右大臣に,15年以後左大臣となった橘諸兄との間でも遷都のことをめぐって意見は分裂するなどした。晩年は,阿倍内親王へ譲位をするが,皇子に恵まれなかったためその後の皇位継承には問題を残した。 聖武天皇の時代は,律令支配体制の大きな転換期をむかえ,経済政策としては,天平15年墾田永代私財法を出して墾田政策を推進し,その結果,それまでの公地主義を大きく変質させることとなった。また天平12年には藤原広嗣の反乱が生じ,その結果,翌年恭仁京(京都府加茂町,木津町,山城町)遷都が行われるなど中央政府の動揺もはげしかった。さらにそのころ,社会秩序を再編成するために仏教政策を重視して,天平13年に諸国の国分寺を創建することとし(国分寺建立詔),天平15年,大仏造営を発願するなどの政策をあいついで出した。全国の国分寺,国分尼寺総国分寺として,大仏を本尊とする東大寺の造営もすすめられた。その結果,それまで政府の管理下に置かれていた僧尼の活動についても,行基の活動にみられるように,大きく容認されることとなった。聖武が企図した大仏の開眼供養は天平勝宝4(752)年実現した。仏教信仰に厚く,光明皇后と共に国家鎮護の仏教政策を遂行したが,内政の安定という点ではほとんど強力な政治の執行は行いえなかった。聖武天皇遺愛の品々は没後の四十九日,光明皇太后によって東大寺に献納されて,正倉院成立のきっかけとなった。8世紀の東西交渉と文化を伝えるそれらの品は,正倉院宝物として知られている。

(鬼頭清明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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防府市歴史用語集の解説

聖武天皇

 724年から749年まで即位していた天皇です。東大寺大仏や国分寺[こくぶんじ]を造らせたことで有名ですが、都を転々とうつしたことでも知られています。正倉院[しょうそういん]に聖武天皇の遺品が残されています。

出典|ほうふWeb歴史館
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世界大百科事典 第2版の解説

しょうむてんのう【聖武天皇】

701‐756(大宝1‐天平勝宝8)
第45代に数えられる古代の天皇。在位724‐749年。文武天皇の第1皇子。諱(いみな)は首(おびと),母は藤原不比等の女宮子。707年(慶雲4)6月文武天皇が25歳で夭折したとき,嫡長子ではあったがわずか7歳のため,祖母の元明,叔母の元正の両女帝が中継ぎとして続いて即位し,首皇子の成長を待った。この間,714年(和銅7)6月14歳で立太子し,719年(養老3)6月はじめて政務にたずさわった。ついで724年(神亀1)2月,24歳で即位した。

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大辞林 第三版の解説

しょうむてんのう【聖武天皇】

701~756) 第四五代天皇(在位724~749)。名は首おびと。文武天皇の第一皇子。光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き,東大寺を建立して大仏を造立した。その書「雑集」は,繊細な筆致の名筆。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

聖武天皇
しょうむてんのう
(701―756)

第45代とされる天皇(在位724~749)。名は首(おびと)、法号勝満(しょうまん)。文武(もんむ)天皇の第1皇子、母は藤原不比等(ふひと)の女(むすめ)宮子(みやこ)。文武が崩じたとき幼少で即位できず、祖母元明(げんめい)、伯母元正(げんしょう)が中継して成長を待ち、714年(和銅7)6月立太子、724年(神亀1)2月即位した。新興貴族藤原氏との関係が深く、不比等の女光明子(こうみょうし)を夫人とし、誕生まもない第1皇子基(もとい)を皇太子にたてたが早世。これを機に左大臣長屋王(ながやおう)を除き、皇族皇后の慣例を破って光明子を皇后にたて、さらに738年(天平10)阿倍(あべ)内親王を皇太子とし、皇女立太子の初例をつくった。遣唐使を派遣して積極的に唐の文物制度を採用、仏教興隆に尽くして律令(りつりょう)国家の盛期と天平(てんぴょう)文化を開花させたが、そこには新旧貴族の権力抗争に巻き込まれたことからくる、鎮護(ちんご)国家のための仏教政策が大きく影響していた。ことに737年の疫病流行で不比等の4子が没してからの貴族間の抗争は激しく、740年の藤原広嗣(ひろつぐ)の乱後は都を恭仁(くに)(京都府木津川(きづがわ)市加茂町例幣(かもちょうれいへい))、難波(なにわ)(大阪市)、紫香楽(しがらき)(滋賀県甲賀(こうか)市信楽(しがらき)町)と移して、5年後に平城へ還るという政治的混乱を起こすが、この間に国分二寺の制度を整え、743年には盧遮那大仏(るしゃなだいぶつ)の造立を発願した。この大事業は平城に移されて東大寺となったが、公民の負担を重くし、律令体制の崩壊を早める原因ともなった。749年4月陸奥国(むつのくに)産金の報を受けて東大寺へ行幸、大仏に自らを三宝(さんぽう)の奴(やっこ)であると述べて天平感宝(てんぴょうかんぽう)と改元し、皇太子(孝謙(こうけん)天皇)に譲位、出家した。754年(天平勝宝6)鑑真(がんじん)から菩薩戒(ぼさつかい)を受け、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8年5月道祖王(ふなどおう)を皇太子にすることを遺詔して崩じた。葬儀は仏を奉ずるごとくに行われ、遺愛の品々は光明皇后によって冥福(めいふく)を祈る願文とともに東大寺に献じられ、現在正倉院に収められている。御陵は奈良市法蓮(ほうれん)町の佐保山(さほやま)南陵。[中川 収]
『東大寺編・刊『聖武天皇御伝』(1956) ▽岸俊男著『日本古代政治史研究』(1966・塙書房)』

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世界大百科事典内の聖武天皇の言及

【諡】より

…また神武天皇以下の諸天皇に対する諡は,淡海(おうみ)三船が勅命によって撰んだものと伝えられる。聖武天皇という名は,勝宝感神聖武皇帝という諡の略称である。天皇の場合でも臣下の場合でも,生前すでに出家していた人に対しては,諡を贈らないのが原則であった。…

【東大寺】より

…南都七大寺,十三大寺,十五大寺の一つ。
[沿革]
 743年(天平15)10月15日,聖武天皇は《華厳経》の教理に基づき動物,植物までも含む共栄の世界を具現するため,国家権力と国民の助援により,盧舎那(るしやな)大仏像の鋳造を発願し,光明皇后もこれをすすめたと伝える。最初は近江国(滋賀県)信楽(しがらき)の甲賀寺において工事が開始され,行基は弟子を率いて諸国に勧進を始めたが,745年5月紫香楽宮(信楽宮)からの平城還都にともない,平城京東山のもと金鐘寺(大和国金光明寺)の寺地に移り,のちに造東大寺司に発展した金光明寺造仏所の手により工事が進められ,747年9月から749年(天平勝宝1)10月に至る歳月と8度の鋳継ぎにより,像高5丈3尺5寸といわれる巨像が完成した(大仏)。…

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