長束村(読み)ながつかむら

日本歴史地名大系 「長束村」の解説

長束村
ながつかむら

[現在地名]安佐南区祇園ぎおん町長束

西山本にしやまもと村の南に位置し、西は青木あおき山に連なる低い山並が遮る。東は太田おおた川を挟んで安芸郡新山にいやま(現東区)、南は新庄しんじよう(現西区)である。やす川が北の南下安みなみしもやす村・西原にしはら村との境から入り、村の中央部を南流、西山本村から入った山本川が西側の山寄りを南流し、ともに新庄村へ出る。雲石路は新庄村から安川の西岸沿いを北上し、南下安村へ抜ける。弥生前期から後期にかけての太田川放水路固定遺跡があり、水面下四メートルの砂層から弥生式土器、やや上流から貝塚・矢板群・井戸が発見された。当地辺りは「和名抄」の佐伯郡桑原くわばら郷に比定され、中世も厳島神社領桑原庄内として推移し、当時の佐東さとう(現太田川)河口にあたる地域であった。

長束村
なつかむら

[現在地名]草津市長束町

上寺かみでら村の北に位置し、志那しな街道に沿う。北を野洲やす郡境のさかい川が流れる。白鳳寺院跡の長束廃寺がある。集落が立地する字東口ひがしぐちから字西浦にしうらにかけて条里地割と異なる不規則な地割があり、野洲川の旧流路にあたる。豊臣秀吉の五奉行のひとり長束正家の出身地と伝える。中世は法会ほうえ図のうち。弘治二年(一五五六)四月二〇日の本間貞政売券写(長束文書)によれば、本間貞政は「長束惣田」に三反を売却したが、公方年貢として本間清介なる者への年貢納入が義務づけられている。

長束村
なづかむら

[現在地名]稲沢市長束町

東は井之口いのくち村に接し、村の東を大助おおすけ川が流れ、南境から西境へと美濃路が通り、街道沿いに出町があった。本郷は村の中央にあり、北屋敷きたやしき・西屋敷・中屋敷・南屋敷に分れ、本郷の南に支郷更屋敷さらやしきがある(天保村絵図)

弘安五年(一二八二)浄金剛じようこんごう院領としての千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)に「中嶋郡南条奈墓里十四坪」、「中嶋郡北条河崎郷奈墓里十一坪五段」とみえ、南条なんじよう(三宅郷か)北条河崎ほくじようかわさき郷とに含まれていて、奈墓なづか里は南条と北条の境にあった。河崎郷は現一宮市南東部から当市北東部に及ぶ地域であった(稲沢市史)。天正一〇年(一五八二)長野万徳寺領年貢帳(万徳寺文書)に次のようにみえる。

<資料は省略されています>

天正末、織田信雄が幅五間の幹線道路築造を命じた判物や幅三間の支線道路築造を命じた判物(酒井家文書)に「なつか」とみえ、家臣道家弥八郎・朝夕の知行地であった(織田信雄分限帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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