コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

長束正家 なつか まさいえ

10件 の用語解説(長束正家の意味・用語解説を検索)

美術人名辞典の解説

長束正家

武将。豊臣秀吉に仕え、郡国の貢賦租税会計を司り、累進して従五位下大蔵大輔となる。豊臣家五奉行の一人。関ヶ原の戦後、池田輝政とその弟長吉に攻められ、子の伊賀守と共に自刃。

出典|(株)思文閣
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

なつか‐まさいえ〔‐まさいへ〕【長束正家】

[?~1600]安土桃山時代の武将。丹羽長秀、のち、豊臣秀吉に仕え、財政をつかさどった。五奉行の一人。秀吉の没後、関ヶ原の戦いに敗れて自殺。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

長束正家【なつかまさいえ】

豊臣家五奉行の一人。初め丹羽長秀に仕官。理財の才能を見込まれて秀吉に仕え,戦時の兵糧調達に手腕を発揮,のち検地奉行となる。1595年近江水口(みなくち)城主となり5万石(のち12万石)を領す。
→関連項目増田長盛

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

長束正家 なつか-まさいえ

?-1600 織豊時代の武将。
はじめ丹羽長秀(にわ-ながひで),のち豊臣秀吉につかえ,文禄4年近江(おうみ)(滋賀県)水口(みなくち)城主。5万石,のち12万石。豊臣家五奉行のひとり。理財にあかるく,茶人としても知られる。関ケ原の戦いに敗れ,慶長5年9月30日自刃(じじん)した。通称は新三,新三郎。号は友阿弥。姓は「ながつか」ともよむ。

長束正家 ながつか-まさいえ

なつか-まさいえ

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

長束正家

没年:慶長5.9.30(1600.11.5)
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将。通称は新三(または新三郎),大蔵大輔。近江国(滋賀県)の出身で,初め丹羽長秀に仕え,行政・財務の才能を認められて漸次重用された。天正13(1585)年4月の長秀死去後は長秀の嗣子長重を補佐していたが,やがて秀吉に召し抱えられ行政吏僚として活躍。同15年の九州征討や同18年の小田原攻めでは兵糧や人馬の輸送のことを主監し,近江・越前その他で太閤検地の奉行を務め,豊臣家の蔵入や知行方の管理などを任務とした。文禄1(1592)年には肥前名護屋城,同3年には伏見城の工事を分担。同4年6月近江水口城主5万石,次いで12万石に加増され,従四位下侍従に叙任。慶長3(1598)年7月五奉行の一員に列せられる。また正家は奉行のほかに右筆をも務めていた。同5年の関ケ原の戦では西軍(石田三成方)に属し,6月に徳川家康が会津遠征に出発するとまもなく水口城を出て大坂城に入り,次いで安国寺恵瓊と共に伊勢に出陣して阿濃津城攻めに加わった。9月15日の決戦では南宮山に陣し,三成の敗北を聞くと水口城に逃れた。しかし東軍の池田長吉に攻められ,9月30日,城を開いて自害。その首は10月1日京都三条河原にさらされた。墓所は近江安乗寺にある。<参考文献>『長束系譜』

(二木謙一)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

なづかまさいえ【長束正家】

?‐1600(慶長5)
豊臣家五奉行の一人。新三郎,大蔵少輔と称した。出身は尾張国中島郡長束村。近江国栗太郡長束村ともいう。初め丹羽長秀に仕官,1585年(天正13)秀吉に仕えて従五位下大蔵少輔に叙任。89年に翌年の小田原征伐の糧食を準備し,91年に増田長盛らと近江を検地した。92年(文禄1)肥前名護屋城,94年伏見城の工事を分担,翌年に増田長盛の跡で近江水口城主として5万石を領し,後に12万石に加増された。98年(慶長3)越前を検地。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

なつかまさいえ【長束正家】

?~1600) 安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の臣。近江水口城主。検地奉行として活躍した。五奉行の一人。関ヶ原の合戦で敗れ自刃、三条河原に梟首きようしゆされた。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

長束正家
なつかまさいえ

[生]?
[没]慶長5(1600).9.30. 近江,日野
安土桃山時代の大名。初め丹羽長秀に仕えたが,理財に長じているところから天正 13 (1585) 年に豊臣秀吉に召しかかえられた。同 17年の小田原征伐に際し兵站を担当。以後各地の検地奉行をつとめ,伏見城や肥前名護屋城などの工事を分担。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

長束正家
なつかまさいえ
(?―1600)

安土(あづち)桃山時代の武将。豊臣(とよとみ)氏五奉行(ぶぎょう)の1人。通称新三郎。初め丹羽長秀(にわながひで)・長重(ながしげ)に仕えたが、1585年(天正13)に豊臣秀吉にみいだされ、その家臣となり、奉行衆に加えられ従(じゅ)五位下大蔵大輔(おおくらたいふ)に叙任された。計算が巧みで財務に長じていたことから、もっぱら算用方を担当した。90年の小田原攻めでは糧食の準備を担当し、翌年には増田長盛(ましたながもり)らと近江(おうみ)国(滋賀県)の検地を担当。さらにその翌年には肥前名護屋(なごや)城の工事を一部担当するなど多彩な活躍をしている。95年(文禄4)には近江水口(みなくち)で4万石を与えられたが、のち12万石に加増され従四位侍従に叙任されている。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに敗れ、所領に戻ったが近江日野(ひの)で自殺した。[佐々悦久]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の長束正家の言及

【五奉行】より

…1598年(慶長3)7月ごろ豊臣秀吉の死を前にして設置された。前田玄以浅野長政増田(ました)長盛石田三成長束(なづか)正家の五名で構成される。豊臣氏の奉行は政権の樹立以来存在し,初期の奉行には桑原貞也,杉原家次,細井方成,石田三也(成),増田長盛,大谷吉継,伊藤秀盛など多くの人名を挙げることができる。…

※「長束正家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

長束正家の関連キーワード道恵文閑細川玄旨牧興相山岡如軒安土桃山時代塙団右衛門横目付亀井玆矩伊勢・安土桃山文化村

今日のキーワード

ネコノミクス

猫が生み出す経済効果を指す造語。2012年に発足した安倍晋三内閣の経済政策「アベノミクス」にちなみ、経済が低迷する中でも猫に関連するビジネスが盛況で、大きな経済効果をもたらしていることを表現したもの。...

続きを読む

コトバンク for iPhone

長束正家の関連情報