佐藤泰然(たいぜん)が下総(しもうさ)国佐倉(千葉県佐倉市)に開いた蘭学(らんがく)塾。佐藤泰然は3年余りの長崎遊学を終えて江戸に帰り、西洋外科を専門として、両国橋のたもとに近い薬研堀(やげんぼり)に開業し、同時に門弟を教えて和田塾と称した(1838)。1843年(天保14)には和田塾を娘婿の林洞海に譲って、泰然は堀田正睦(まさよし)の城下である佐倉に移って順天堂塾を開いた。順天というのは「天道にしたがう」という意味である。当時広く行われていた、華岡青洲(はなおかせいしゅう)を祖とする漢蘭折衷外科に対して、順天堂は西洋外科の本拠として名をあげ、各地から多くの人々が入門した。
1859年(安政6)泰然は隠居し、養子の佐藤瞬海(しゅんかい)(尚中(しょうちゅう))が第2代の順天堂主となった。尚中も長崎に遊学し、ポンペについて当時の最新の西洋医学を修得している。69年(明治2)尚中は明治政府に迎えられて大学大博士となり、大学東校(東京大学医学部の前身)の最高の教授職についたが、ドイツ人教師の来訪を機に大学東校を辞して、73年下谷練塀(したやねりべい)町に初めて東京の順天堂を開いた。翌々年、現在地の御茶ノ水に木造2階建ての病院をつくって移転した。佐倉の順天堂は高弟の岡本道庵を養子として、彼に任せた。
明治の大部分を通じて、お茶の水の順天堂は尚中の養子、進(旧姓高和)が主宰し、医師の養成(主として卒後教育)にとくに力を注いだ。第4代達次郎(旧姓河合)が進の後を襲い、大正・昭和と順天堂の経営にあたった。1943年(昭和18)順天堂医学専門学校の設立が認可され、これが今日の順天堂大学へと発展した。
[深瀬泰旦]
『順天堂大学編・刊『順天堂史』(1980)』
佐藤泰然が開いた病院と医学塾。江戸両国薬研堀で西洋外科の医学塾を開いていた佐藤(和田)泰然が,1843年(天保14)8月に下総佐倉(現,千葉県佐倉市)に移住し,佐倉藩の客分として佐倉本町に私立病院と学塾を設け順天堂と称した。〈順天〉は中国古典にいう〈天道にしたがう〉の意で,医と人の道の指針として友人の姫路藩医山田朴庵が命名したとされる。順天堂は私立病院として日本最初のものだった。泰然は佐倉移住後,父祖の姓を名乗って佐藤と改めた。泰然は,ここで諸国より西洋外科術を学ぶために集まってきた多くの医生を指導し,洋書を翻訳して教えるとともに,実地の臨床外科診療を行い手術もたびたび行って,順天堂は西洋外科の新しいメッカとなった。その養嗣子佐藤尚中が72年(明治5)に東京下谷練塀町に開設した病院も順天堂といい,3年後の75年4月に湯島に移って順天堂医院と称し現在に至っている。その間,医学校(現,順天堂大学)を開き同医院はその付属施設となった。
執筆者:宗田 一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…しかしその長は,やはり多紀家のものがあたった。蘭方系としては,江戸で伊東玄朴が開設した象先堂(1833),大坂で緒方洪庵による適々斎塾(1838),京都の新宮涼庭による順正書院(1839),さらに佐倉の佐藤泰然の順天堂(1843)などが知られている。 これらの背景には,江戸幕府政権のイデオロギー確立のための文教政策としての儒学センター昌平坂学問所の設置と,それにならっての各地での藩校の設置がある。…
…幕末・明治初期の医師・外科医,東京の順天堂の創始者。下総で出生,本姓は山口,舜海(しゆんかい)と称し,笠翁(りゆうおう)と号した。…
…江戸時代末期の医師・外科医,佐倉順天堂の創始者。武蔵国川崎在に生まれる。…
…これが私立病院である。こうした私立病院で初期のものとして有名なのは,長崎養生所出身の幕府医官松本良順が1870年(明治3)東京に設けた蘭疇(らんちゆう)医院,ドイツ帰りの佐藤尚中が72年同じく東京に設けた博愛社医院(後,順天堂と改称)などがある。もっとも87年ころまでは私立病院よりは公立病院のほうが多い。…
※「順天堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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