デジタル大辞泉
「石黒忠悳」の意味・読み・例文・類語
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石黒 忠悳
イシグロ タダノリ
- 肩書
- 枢密顧問官,陸軍軍医総監
- 別名
- 号=石黒 况翁(イシグロ キョウオウ)
- 生年月日
- 弘化2年2月11日(1845年)
- 出生地
- 福島県
- 学歴
- 医学所
- 学位
- 医学博士
- 経歴
- 医業を志し江戸に出て、20歳の時医学所に入学、医学所教師である句読師となったが、維新の変で帰郷。明治2年大学東校に職を奉じ大学少助教となった。4年兵部省に転じ、一等軍医に任ぜられる。7年佐賀の乱、10年西南戦争に従軍。その間アメリカ派遣。12年東京大学医学部綜理心得となり、陸軍軍医監、軍医本部長としてわが国の軍医制度の創設に尽力した。22年陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長を兼任。日清戦争では野戦衛生長官として広島大本営に従軍。戦後勲功により男爵。34年予備役。35年勅選貴院議員。中央衛生会会長、日本薬局方調査会長を務めた。日露戦争では大本営兼陸軍検疫部御用掛となり、軍功により勲一等旭日大綬章受章。のち大正9年子爵、枢密顧問官、日本赤十字社長を務める。著書に「長生法」「懐旧九十年」「況翁叢話」「耄録」「石黒忠悳懐旧九十年」などがある。
- 受賞
- 勲一等旭日大綬章
- 没年月日
- 昭和16年4月26日
- 家族
- 養子=石黒 忠篤(農政家)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
石黒 忠悳
イシグロ タダノリ
明治〜昭和期の医学者 陸軍軍医総監;枢密顧問官。
- 生年
- 弘化2年2月11日(1845年)
- 没年
- 昭和16(1941)年4月26日
- 出生地
- 福島県
- 別名
- 号=石黒 况翁(イシグロ キョウオウ)
- 学歴〔年〕
- 医学所
- 学位〔年〕
- 医学博士
- 主な受賞名〔年〕
- 勲一等旭日大綬章
- 経歴
- 医業を志し江戸に出て、20歳の時医学所に入学、医学所教師である句読師となったが、維新の変で帰郷。明治2年大学東校に職を奉じ大学少助教となった。4年兵部省に転じ、一等軍医に任ぜられる。7年佐賀の乱、10年西南戦争に従軍。その間アメリカ派遣。12年東京大学医学部綜理心得となり、陸軍軍医監、軍医本部長としてわが国の軍医制度の創設に尽力した。22年陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長を兼任。日清戦争では野戦衛生長官として広島大本営に従軍。戦後勲功により男爵。34年予備役。35年勅選貴院議員。中央衛生会会長、日本薬局方調査会長を務めた。日露戦争では大本営兼陸軍検疫部御用掛となり、軍功により勲一等旭日大綬章受章。のち大正9年子爵、枢密顧問官、日本赤十字社長を務める。著書に「長生法」「懐旧九十年」「況翁叢話」「耄録」「石黒忠悳懐旧九十年」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
石黒忠悳 (いしぐろただのり)
生没年:1845-1941(弘化2-昭和16)
医学者。日本の陸軍軍医制度の基礎を築いたのをはじめ,近代医学教育,看護婦養成など各方面に功績を残した。福島県生れ,本籍は新潟県。庸太郎,恒太郎ともいい,況斎と号した。1865年(慶応1)医学所に入る。大学東校に勤め,70年(明治3)大学少助教となり,79年東京大学医学部綜理心得となる。陸軍に関係し,1871年兵部省に出仕,佐賀の乱,西南戦争に従軍,陸軍軍医監,軍医本部長を経て陸軍軍医総監(中将相当)に進み陸軍省医務局長を兼ね,軍医学校校長に就いたこともある。日清・日露の両戦役でも医療面で重要な役割をなす。貴族院議員,子爵,枢密顧問官のほか,中央衛生会会長,日本赤十字社社長,日本薬局方調査会会長などに就いた。《外科説約》《黴毒新説》《虎烈剌論》など多くの著訳書があって,これらが啓蒙的な役割を果たしたところが大であった。医界の長老として重きをなし,よく長寿を保った。嗣子石黒忠篤(いしぐろただあつ)は政治家となり農政面で知られた。
執筆者:長門谷 洋治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
石黒忠悳
いしぐろただのり
(1845―1941)
日本の軍医界の功労者。陸奥国(むつのくに)伊達(だて)郡梁川(やながわ)(現、福島県伊達市)の平野家に生まれ、16歳で祖家石黒家を継いだ。1865年(慶応1)医学所に入り、西洋医学を修めた。明治維新後、大学東校に出仕、1870年(明治3)大学少助教となった。翌1871年、兵部省(ひょうぶしょう)軍医寮に出仕して軍医としての第一歩を踏み出し、1874年佐賀の乱には陸軍一等軍医正として出陣、1877年西南戦争では大阪臨時陸軍病院長を務めた。1888年軍医学校長、1890年陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長に任ぜられた。日清戦争(にっしんせんそう)(1894~1895)では野戦衛生長官として、日露戦争(1904~1905)では大本営付兼陸軍検疫部御用掛として活躍し、傷病兵の救護、戦時衛生の確保に貢献した。明治初期において西洋医学を各方面に移植することに尽力し、陸軍軍医となってからは日本の陸軍衛生部の基礎の確立に功労が大きい。退職後、中央衛生会会長、日本赤十字社社長、貴族院議員、枢密顧問官などを歴任。随筆その他著書もある。
[大鳥蘭三郎]
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石黒忠悳
いしぐろただのり
[生]弘化2(1845).2.11. 岩代,梁川
[没]1941.4.26. 東京
医師,子爵。近代陸軍軍医制度を築いた人。本姓は平野氏。両親を早く失って祖家石黒家を継ぐ。尊王攘夷の士と交わっていたが,20歳で志を医学に転じ,医学所などに学ぶ。明治2 (1869) 年から大学東校に勤めたのち,同4 (71) 年兵部省に転じ,軍医寮に出仕,松本良順のもとで軍医制度の創始に尽力した。 1890年陸軍軍医総監および陸軍省医務局長に昇進。日清戦争では野戦衛生長官として広島で活躍し,その功によって男爵に列せられた。また,79年東京大学医学部綜理心得を兼職し,83年には中央衛生会委員となった。 97年に軍医総監を辞任。日本赤十字社の創設に尽力して創立と同時に常議員となっており,1917~20年同社長をつとめる。 20年枢密顧問官,子爵となる。
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石黒忠悳 いしぐろ-ただのり
1845-1941 明治-大正時代の医師,軍人。
弘化(こうか)2年2月11日生まれ。石黒忠篤(ただあつ)の父。幕府医学所にまなび,明治4年兵部省軍医寮にはいる。21年軍医学校長,23年陸軍軍医総監,陸軍省医務局長。35年貴族院議員。大正6年日本赤十字社長。近代軍医制度の確立につとめた。昭和16年4月26日死去。97歳。陸奥(むつ)伊達郡(福島県)出身。本姓は平野。初名は忠恕,のち忠徳。号は況翁(きょうおう)。
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石黒 忠悳 (いしぐろ ただのり)
生年月日:1845年2月11日
明治時代-昭和時代の医学者。日本赤十字社社長;貴族院議員
1941年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報