幕末・明治時代の蘭方医(らんぽうい)。上総(かずさ)国(千葉県)の農家に生まれ、儒家関俊輔(しゅんすけ)の養子となった。名は務(つとむ)、字(あざな)は致道、寛斎と号し、明治維新後に寛と改名した。佐倉順天堂佐藤泰然の門に入って蘭方医学を修め、銚子(ちょうし)で開業中に和歌山県の実業家、濱口梧陵(ごりょう)(1820―1885)の学資援助で長崎に遊学し、蘭医ポンペに学んだ。のち徳島藩医となり、維新戦争では官軍の奥羽出張病院頭取、維新戦争後は徳島藩立医学校の設立に参画し、医学肝煎(きもいり)会頭・付属病院長となったが、ゆえあって退官。海軍省に出仕し、その後、県立山梨病院長を経て徳島で開業したが、72歳で北海道に渡り、原野を開拓、農場を開くかたわら貧民の施療にあたって関大明神と崇(あが)められた。著書に『七新薬』(1862)の校閲ほかがある。
[宗田 一]
…中心集落は利別川と陸別川,斗満(とまむ)川の合流点付近にあり,北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線,国道242号線が通じる。1902年徳島県の医師関寛斎(1830‐1913)らが入植,10年根室本線池田~陸別間に網走線(現,北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線)が開通し,本格的な開拓が進んだ。主産業は林業と酪農で,豊富な森林資源を背景に製材,木材加工業が行われる。…
※「関寛斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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