中国の軍人,政治家。四川省楽至県出身。1919年苦学生として周恩来,鄧小平らとフランスに留学。23年中国共産党に入党。27年南昌蜂起に参加。失敗後,朱徳を助けて湖南,広東を転戦,28年5月井岡山で毛沢東部隊と合流,紅4軍が成立した。29年には紅4軍党委員会書記となった。紅軍が中央根拠地を放棄した後,項英とともに残留部隊を指導,広東,湖南省境地区で3年の苦難の遊撃戦争を続けた。37年国共合作で新四軍が編成されると,各地の残留紅軍を糾合する任にあたり,第1支隊司令に任ぜられ,江蘇省南部に茅山根拠地を建設した。40年には粟裕らをひきいて,長江(揚子江)北岸地区に進出,10月黄橋の戦で国民党政府軍の韓徳勤軍を破り,江北根拠地を固めた。41年皖南(かんなん)事変が起こると,葉挺のあとをうけて新四軍軍長に任ぜられ,政治委員劉少奇と協力して,新四軍を抗日戦争終結時26万の大軍に発展させた。46年からの国共内戦では華東野戦軍司令,第3野戦軍司令として済南攻略,淮海(わいかい)戦役に功績をたて,解放後は華東軍区司令兼上海市長となる。54年副首相,55年解放軍に階級制を設けた際には10人の元帥の一人に任ぜられた。58年周恩来首相専任のあとを受けて外相となり,周首相の片腕として活躍した。豪放磊落(らいらく)な性格で知られ,66年文化大革命が始まると紅衛兵のつるし上げにあっても,冗談を飛ばして応戦して屈せず,周首相の保護で失脚を免れた。碁が何よりの趣味で,戦陣にも碁石の袋を腰に出かけたといわれ,日本棋院から名誉7段を贈られた。
執筆者:宍戸 寛
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中国の政治家、軍人。四川(しせん)省生まれ。上海(シャンハイ)交通大学卒後、1920年に渡仏、帰国後は重慶(じゅうけい)で『新蜀報』を創刊。1923年北京(ペキン)で共産党に入党、国共合作から分裂期を通じて華中を中心に活躍した。新四軍の支隊司令・代理軍長を務め、戦後に改編された人民解放軍の第三野戦軍司令として、1949年、中国最大都市の上海を解放、上海市長となった。1954年アジア・アフリカ会議(バンドン会議)に出席、国務院副総理に就任、1958年以来病死するまで外交部長の職にあり、周恩来、劉少奇(りゅうしょうき)らに同行してアジア・アフリカ諸国を精力的に訪問。文革で批判され、1969年中央委員に降格。死去の際には名誉回復がなされた。
[加藤祐三]
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1901~72
中国現代の軍人,政治家。四川省楽至(らくし)県の人。1923年に共産党に入党。27年国共分裂後江西ソヴィエトに入り,長征に際しては残留部隊を率いて遊撃戦を展開した。国共内戦では第三野戦軍司令となり,淮海(わいかい)戦役を指揮した。上海を占領すると市長を兼ねた。55年元帥。58年外交部長として周恩来を補佐した。文化大革命中は紅衛兵から厳しく批判されたが敢然と抵抗した。その豪放な性格は大衆から愛された。
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…国共関係が悪化すると,41年1月新四軍司令部は安徽省南部で国民政府軍に包囲され,9000人が全滅,葉挺は捕虜となり項英は戦死した(皖南事変)。中国共産党は劉少奇を政治委員,陳毅を軍長とし,7ヵ師編成で新四軍を再建。長江(揚子江)北岸地域を中心に発展。…
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