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陳毅 ちんきChen Yi

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

陳毅
ちんき
Chen Yi

[生]光緒27(1901).四川,楽至
[没]1972.1.6. 北京
中国の政治家。上海交通大学卒業。 1920~21年フランスに留学,帰国後 23年共産党に入党。 27年国共分裂後,江西ソビエト区に入り,34年 10月中央紅軍の長征出発後も残留。抗日戦争に入ると新四軍を組織し,41年1月の皖南事変後は代理軍長をつとめた。第2次世界大戦後の内戦期には第3野戦軍司令。 49年中華人民共和国成立後,華東軍政 (のち行政) 委員会主席,華東軍区司令兼上海市長を経て,54年中央軍事委員会副主席,国務院副総理。 56年9月中央政治局委員,58年外交部長と進み,59年より人民政治協商会議第4期全国委員会副主席。 66年文化大革命で紅衛兵の攻撃を受けたが,72年副総理兼外交部長のまま病死。

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百科事典マイペディアの解説

陳毅【ちんき】

中国の軍人,政治家。四川省の人。1923年中国共産党に入党。1927年中国国民党と共産党の分裂後,江西ソビエトに入り,長征では残留部隊を率いてゲリラ戦を展開。新四軍の第一支隊司令,のち代理軍長。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちんき【陳毅 Chén Yì】

1901‐72
中国の軍人,政治家。四川省楽至県出身。1919年苦学生として周恩来,鄧小平らとフランスに留学。23年中国共産党に入党。27年南昌蜂起に参加。失敗後,朱徳を助けて湖南,広東転戦,28年5月井岡山で毛沢東部隊と合流,紅4軍が成立した。29年には紅4軍党委員会書記となった。紅軍が中央根拠地を放棄した後,項英とともに残留部隊を指導,広東,湖南省境地区で3年の苦難の遊撃戦争を続けた。37年国共合作で新四軍が編成されると,各地の残留紅軍を糾合する任にあたり,第1支隊司令に任ぜられ,江蘇省南部に茅山根拠地を建設した。

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大辞林 第三版の解説

ちんき【陳毅】

1901~1972) 中国の軍人・政治家。1923年中国共産党に入党。抗日戦争では新四軍を率いて活躍。解放後、上海市長・国務院副総理を歴任、58年から外交部長を兼任。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

陳毅
ちんき / チェンイー
(1901―1972)

中国の政治家、軍人。四川(しせん)省生まれ。上海(シャンハイ)交通大学卒後、1920年に渡仏、帰国後は重慶(じゅうけい)で『新蜀報』を創刊。1923年北京(ペキン)で共産党に入党、国共合作から分裂期を通じて華中を中心に活躍した。新四軍の支隊司令・代理軍長を務め、戦後に改編された人民解放軍の第三野戦軍司令として、1949年、中国最大都市の上海を解放、上海市長となった。1954年アジア・アフリカ会議(バンドン会議)に出席、国務院副総理に就任、1958年以来病死するまで外交部長の職にあり、周恩来、劉少奇(りゅうしょうき)らに同行してアジア・アフリカ諸国を精力的に訪問。文革で批判され、1969年中央委員に降格。死去の際には名誉回復がなされた。[加藤祐三]

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世界大百科事典内の陳毅の言及

【新四軍】より

…国共関係が悪化すると,41年1月新四軍司令部は安徽省南部で国民政府軍に包囲され,9000人が全滅,葉挺は捕虜となり項英は戦死した(皖南事変)。中国共産党は劉少奇を政治委員,陳毅を軍長とし,7ヵ師編成で新四軍を再建。長江(揚子江)北岸地域を中心に発展。…

※「陳毅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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