中国の軍事指導者。広東(カントン)省恵陽県の人。字(あざな)は希夷(きい)。保定軍官学校6期生で、1922年孫文(そんぶん)衛隊団の営長となる。1924年、当時のソ連に留学、同年中国共産党に入党した。翌1925年帰国し、北伐時は第四軍独立団団長として最前線にたち、武勇をはせ、鉄軍とよばれた。1927年蒋介石(しょうかいせき)の上海(シャンハイ)クーデター(四・一二クーデター)のあと、南昌(なんしょう)暴動に第11軍第24師を率いて参加した。南下して広州コミューンに参加、コミューン崩壊後、香港(ホンコン)を経てドイツへ出国した。1938年1月、新四軍が形成されると軍長となり、抗日戦に活躍すると同時に、華中に根拠地を広げたが、1941年皖南(かんなん)事件で国民党軍に捕らえられた。1946年に釈放され、延安に向かう途中の4月8日飛行機事故で死亡した。
[遠藤節昭]
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中国,現代の軍人。国民革命軍第4軍連隊長として1926年北伐に参加,第24師長に昇進したが,27年8月1日の南昌蜂起に参加,第11軍長となる。27年12月の広州蜂起でも総指揮となったが失敗し,のち出国して香港に閑居していた。37年国共の再合作で華中の旧根拠地に残っていた紅軍をあつめて新四軍が編成されると,国共妥協人事で軍長となる。41年1月皖南(かんなん)事変で国府軍に捕らえられ,46年3月釈放されたが,4月飛行機事故で死亡。
執筆者:宍戸 寛
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1896~1946
中国共産党の軍人。広東省恵陽県の人。北伐で彼の率いる部隊は鉄軍と賞賛された。南昌暴動,広州コミューンに参加。日中戦争が起こると新四軍軍長となり,皖南(かんなん)事件で逮捕され,1946年釈放された。延安へ帰る途中,飛行機事故で没した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…国共合作崩壊後,瞿秋白(くしゆうはく)を中心とする中共指導部が,大衆的基盤をもつ広州でおこしたもので,秋収蜂起等の極左路線の一環である。葉挺らの指導のもとに,12月11日早朝,2000余の武装労働者の隊伍が広州全市を制圧してソビエト政府を樹立した。主席には香港海員スト(省港ストライキ)以来の輝ける指導者蘇兆徴が選ばれ(在モスクワ),実質的に計画をすすめた中共広東省委責任者の張太雷(1898‐1927)が代行した。…
… 孫文逝世後,広東政府は汪兆銘を中心とする国民政府に改組され,26年7月,蔣介石を国民革命軍総司令として北伐を開始した。国民革命軍はソ連赤軍に学んで党代表制を取り入れ,政治教育を行ったため,軍閥軍に比べて戦闘精神にひいで,とりわけ葉挺の独立団をはじめ,共産党員が重要な役割を果たした。農民運動が燃えあがった湖南はいうまでもなく,湖北でも江西でも民衆の支援を得た北伐軍は3ヵ月ばかりで長沙,武漢,南昌を手中にした。…
…4ヵ支隊。軍長葉挺,副軍長項英)とした。国共関係が悪化すると,41年1月新四軍司令部は安徽省南部で国民政府軍に包囲され,9000人が全滅,葉挺は捕虜となり項英は戦死した(皖南事変)。…
※「葉挺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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