日本歴史地名大系 「青方浦」の解説
青方浦
あおかたうら
中世、五島にみえる地名。
〔下沙汰職の青方氏〕
青方の地名は弘安三年(一二八〇)一一月二五日の百姓等連署起請文案に「あをかたのうら」とみえるのが早い例であるが、青方文書のなかでも最も古いのは建久七年(一一九六)七月一二日の前右大将源頼朝家政所下文案であり、 宇野御厨内小値賀島の地頭職に尋覚が補任されている。この尋覚が青方氏の始祖といわれ、小値賀島の本領主の清原是包の甥であるという。承元二年(一二〇八)尋覚は嫡子の藤原通高(通澄)に同職を譲り、次男の家高(覚円)に譲与していた小値賀島のうち浦部島を家高の嫡子太郎能高が尋覚に対し違乱したため悔返し、通高に譲り直している(同年二月日尋覚譲状案)。家高は浦部島の青方浦を本拠とするようになり、のち青方氏を称した。承久元年(一二一九)通澄が小値賀島地頭職を峰持に譲ったことに伴い、峰氏(のちの平戸松浦氏)と山代氏(小値賀島の本領主是包の姪の清原三子の系統)との間で相論となるが、安貞二年(一二二八)峰持が勝訴し、山代固の知行が停止され(安貞二年三月一三日関東裁許状案など)、峰氏による小値賀島の知行が安堵された。一方、青方氏はこの峰氏との間で小値賀島のうち浦部島の実質的な領有権をめぐって争い、暦仁元年(一二三八)家高とその嫡子能高(覚尋)の代まで「したのさた」(下沙汰職、つまり地頭代官か)であることを認められた(同年一二月二五日峰持・源等和与状案など)。これは是包・尋覚の系統で小値賀島の本主と称する青方氏にとって領主権を奪われることを余儀なくされたもので、下地は段歩たりとも所有できず、下沙汰職にとどまって地頭の命に背けばたちまち解任される立場にあることを意味した(嘉元二年一一月峰貞代長陳状案など)。
文応元年(一二六〇)「青方二郎」に対して毎月六斎日および二季彼岸のときに江海で漁網を用い、山野で狩猟を行うことの禁止が命じられ、違犯の者を注進するよう指示され、また恒例の公事のほか臨時の役負担はいっさい停止することについても通知されており(同年七月二〇日肥前国守護武藤資能施行状案など)、青方氏がなお五島あるいは浦部島において有力層であったことが知られる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報