日本歴史地名大系 「浦部島」の解説
浦部島
うらべしま
中世にみえる広域通称名で、浦部・浦目浦とも記され、「うらへ」「うらめ」と読む。中浦部・西浦部(下浦部を含む)などからなり、現在の
文永五年(一二六八)得分をめぐって能高と湛(持の孫)が相論となり、同九年湛は越訴としていっそのこと闕所にするよう申出たが、幕府は持・湛の避状を得て西念(家高)が領知している下沙汰職を闕所とすることはできないとして、湛の越訴を却下し、湛と能高がこれまでどおり領掌することを命じ(同年五月一〇日関東裁許状案など)、同一〇年浦部島以下の沙汰職は能高の領掌が確認された(同年九月一日関東御教書案)。弘安三年(一二八〇)再び得分をめぐって相論になったらしく、峰持・青方家高の知行していた時代、地頭の得分は夏狩の際、二、三日農民を召使うほか、網一張を下賜し、青方氏と交渉し、その網一張を住人に引かせて得た得分を地頭のものにするほかは、便宜のとき最小分を召すことなどで、また青方氏は峰湛の定めた狩三日・農作三日のほかにも必要により百姓を召使っていたと守護の尋問に答えている(同年一一月二五日百姓等連署起請文案)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報