浦部島(読み)うらべしま

日本歴史地名大系 「浦部島」の解説

浦部島
うらべしま

中世にみえる広域通称名で、浦部・浦目浦とも記され、「うらへ」「うらめ」と読む。中浦部・西浦部(下浦部を含む)などからなり、現在の中通なかどおり島・若松わかまつ島にあたる範囲で、新魚目しんうおのめ町・上五島町有川ありかわ町・若松わかまつ町・奈良尾ならお町に及ぶ。承元二年(一二〇八)七月日の尋覚譲状案(青方文書、以下同文書)に「小値賀島内浦部」とみえる。建久七年(一一九六)小値賀おちか島の地頭職を得た尋覚は当地を次男家高(青方氏を称する)に譲り、家高は嫡子である太郎(青方能高)に譲ったが、家高に違乱(敵人に奉公)があったため悔返し嫡男の通高(通澄)に譲渡し直した。しかし承元三年に浦部の田畠在家が家高に譲られている(同年二月日尋覚譲状案)。承久元年(一二一九)通澄が小値賀島の地頭職を親子の契りを結んだ峰持に譲ったことから(同年一一月二日青方通澄譲状案)、持と家高・能高父子との間で相論となり、暦仁元年(一二三八)に和与が成立、青方氏は「みくりやのみしやうおちかのしまのうちうらへ」の下沙汰職(地頭代官)であることが確認され、地頭峰氏に実質的な領有権を奪われることになった(同年一二月二五日峰持・源等和与状案)。ところが家高は地頭に無断で子息に分割譲与を行ったため相論になっていき、青方氏とその一族の白魚氏らが当地を相伝していく。

文永五年(一二六八)得分をめぐって能高と湛(持の孫)が相論となり、同九年湛は越訴としていっそのこと闕所にするよう申出たが、幕府は持・湛の避状を得て西念(家高)が領知している下沙汰職を闕所とすることはできないとして、湛の越訴を却下し、湛と能高がこれまでどおり領掌することを命じ(同年五月一〇日関東裁許状案など)、同一〇年浦部島以下の沙汰職は能高の領掌が確認された(同年九月一日関東御教書案)。弘安三年(一二八〇)再び得分をめぐって相論になったらしく、峰持・青方家高の知行していた時代、地頭の得分は夏狩の際、二、三日農民を召使うほか、網一張を下賜し、青方氏と交渉し、その網一張を住人に引かせて得た得分を地頭のものにするほかは、便宜のとき最小分を召すことなどで、また青方氏は峰湛の定めた狩三日・農作三日のほかにも必要により百姓を召使っていたと守護の尋問に答えている(同年一一月二五日百姓等連署起請文案)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報