日本歴史地名大系 「鞆浦」の解説
鞆浦
とものうら
沼隈半島の先端部に位置し、背後に
〔古代〕
鞆の名がみえる最初の史料は今のところ「万葉集」である。天平二年(七三〇)の冬一二月、大宰府での勤務を終えた大伴旅人が上京する途中ここを通過し、
などの歌三首を残している。鞆の「むろの木」は当時有名であったらしく、往返する旅行者が、帰途再びその木を無事に見ることができるよう祈り、また帰れなかった者を悼んだのである。天平八年にここを通過した遣新羅使の一行も「むろの木」を詠んだ歌を残している(巻一五)。このように、奈良時代すでに内海航路の一拠点であったと思われるが、それ以後しばらくは明らかでなく、「和名抄」にみえる沼隈郡四郷のうち、鞆が何郷にあたるかも諸説があって定かでない。
瀬戸内を舞台とする源平の争乱期に入ると、鞆の名が再び史上に現れる。養和元年(一一八一)の平清盛の死去と前後して、四国では河野氏など反平家の動きが活発となり、平家方の備後住人ぬか(奴可)の入道西寂が、鞆から兵船を率いて伊予に渡り河野通清を討つが、鞆に帰って遊女と戯れているところを河野通信に殺されたという(「平家物語」巻六飛脚到来)。また「源平盛衰記」には、元暦二年(一一八五)の屋島の合戦に、六十人力の鞆六郎が平家方についていたことがみえる。鞆の
〔中世〕
承久の乱に鞆正友が上皇方として活躍したと伝え(鞆浦志)、乱後には新補地頭が置かれたらしい。鞆浦地頭代が、寛喜二年(一二三〇)に山城石清水八幡宮寺領
鞆浦
ともうら
現町域の東部に位置し、北は海部川の河口、南は
慶長二年(一五九七)の分限帳に「奥村友町」とあるのが当地に関連すると考えられ、高八七石余が益田宮内丞の知行分。慶長年間のものと推定される国絵図に「と毛」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「とも村」と記される。寛永一五―一八年頃の作製と推定される阿波国大絵図には「鞆湊口」とあり、海部川河口部の二流路が形成する小島に「海部古城」と記される。正保国絵図では鞆浦として高二七石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方一三石余・畠方一三石余、旱損・芝山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高三四石余。「阿波志」では鞆村とし、高三一石余、家数二九一・人数一千九九。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報