大和朝廷の馬具製作にあたった職業部。《日本書紀》雄略7年条に百済貢上の今来才伎(いまきのてひと)の中に鞍部堅貴の名がある。《坂上系図》には仁徳朝に鞍作村主(すぐり)らが阿智使主(あちのおみ)に従って来たと記すが,これは東漢(やまとのあや)氏の管掌下にあったことから造作されたもので,5世紀後半に百済渡来の工人を組織したものであろう。なお日本では5世紀前半より馬具が製作されているので,これ以前の工人渡来の可能性も否定できない。また鞍部村主司馬達等(止)は継体16年来朝と伝え,順次渡来人を組織していったのであろう。大和,美濃,備前等に分布しており,伴造(とものみやつこ)は造(みやつこ)・首(おびと)姓をもつ。鞍作は金工,木工,漆工等の技術を要したので,鞍作止利のようにその技術を用いて造仏にあたるものも出た。大化改新以降も解放されず雑戸(ざつこ)とされた(《続日本紀》天平勝宝4年2月条)が,鞍作を管掌する官司はないので,おそらく金工は鍛冶司・造兵司へ,鞍具縫作者は内蔵寮・大蔵省へと分属されたのであろう。どろよけの馬具をつくる泥障(あおり)は品部とされ,漆部(ぬりべ)司に配された。
執筆者:新井 喜久夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鞍部とも。大和朝廷のもとで馬具,とくに鞍の製作に従事した品部(しなべ)。鞍の製作には木工・漆工・金工の高い技術を要したことが「延喜式」左右馬寮式からもわかる。「日本書紀」雄略7年条の伝承に,百済(くだら)の貢した今来才伎(いまきのてひと)の鞍部堅貴(くらつくりのけんき)がみえ,彼らは東漢(やまとのあや)氏の管轄下に飛鳥各地に居住したという。百済系鞍作部の伝統は律令制下にも続いたらしく,鞍具製作の管理にあたる内蔵(くら)寮・大蔵省の双方に百済手部(てひとべ)・百済戸が所属している。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
… まず伴として,畿内の中小豪族を任ずる殿部(とのもり)(天皇の乗輿,宮殿の調度,灯火をつかさどる),水部(もいとり)(供御の清水や氷をつかさどる),掃部(かにもり)(殿内の掃除をつかさどる),門部(かどもり∥かどべ)(宮殿の諸門の守衛をつかさどる),蔵部(くらひと)(内蔵,大蔵の出納をつかさどる),物部(もののべ)・佐伯部(さえきべ)(軍事・警察,刑罰をつかさどる)などがあった。部として,畿内やその周辺に居住する帰化氏族,その他を任ずる錦織部(にしこり∥にしごりべ)(絹織物の生産に従う),衣縫部(きぬぬい∥きぬぬいべ)(衣服の縫製に従う),鍛冶部(かぬち∥かぬちべ)(鉄と兵器の生産に従う),陶作部(すえつくり∥すえつくりべ)(陶器の製作に従う),鞍作部(くらつくり∥くらつくりべ)(馬具の製作に従う),馬飼部(うまかい∥うまかいべ)(馬の飼育に従う)などがあった。このように下部組織を形成する伴や部を〈トモ〉ともいい〈ベ〉ともいうのは,百済の官司の諸部の制度を輸入して朝廷の政治組織を革新したとき,朝廷の記録をつかさどっていた百済の帰化人=史部(ふひと∥ふひとべ)が,本国の習慣に従い,漢語の〈部〉とその字音の〈ベ〉を,日本の〈伴〉の制度に適用したために生じたとみるのが正しいであろう。…
※「鞍作部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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