生没年不詳。飛鳥(あすか)時代の渡来系技術者で、仏教篤信者としても知られる。『扶桑略記(ふそうりゃっき)』には、大唐漢人案作村主(もろこしのあやひとくらつくりのすぐり)司馬達止とあり、522年(継体天皇16)に来朝、大和(やまと)の高市(たけち)郡坂田原(奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村坂田)に草庵(そうあん)を結び、本尊を安置し帰依(きえ)礼拝したので、世の人々は皆これは大唐の神だとはやしたという。『日本書紀』では、584年(敏達天皇13)に蘇我馬子(そがのうまこ)と協力して仏法興隆に努め、11歳の娘の嶋(しま)(善真尼)を尼にし、馬子の建てた仏殿を供養させ、舎利を献じたことがみえる。彼の子の多須奈(たすな)(生没年不詳)も用明(ようめい)天皇の冥福(めいふく)を祈って出家し徳斉(とくせい)と称した。多須奈の子が造寺・造仏に優れた業績を残した有名な止利(とり)仏師(鞍作止利(くらつくりのとり))である。
[志田諄一 2017年7月19日]
6世紀前半に仏教受容に活躍した帰化人。生没年不詳。達止とも書く。《扶桑略記》によれば,継体朝に渡来して,仏教公伝以前に大和国高市郡の坂田原に草堂を結んで,仏像を安置礼拝していたという。朝廷に仕えて鞍部村主(くらつくりのすくり)という小氏となり,東漢(やまとのあや)氏の統率の下に馬具・皮革製品等の生産に従うとともに,大臣(おおおみ)蘇我馬子を助けて大いに仏法の普及・興隆に努め,その女の嶋(しま)(善信尼)は日本最初の出家者となり,子の鞍部多須奈(たすな)(徳斉法師,鞍作止利の父)は用明天皇のために出家して坂田寺を造った。達等はおそらく当人が百済から渡来した中国系帰化人で,これを《元亨釈書》が南梁の人と記しているのは《扶桑略記》に大唐漢人とあるのを中国渡来と速断したものであろう。
執筆者:関 晃
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鞍部(案部)村主(くらつくりのすぐり)司馬達等・桉師首(くらつくりのおびと)達等とも。生没年不詳。6世紀頃の渡来人。鞍作多須奈(たすな)の父。鞍作鳥の祖父。仏教公伝以前から仏教を信奉したとされ,公伝後も蘇我氏のもとで仏像の将来や法会の開催など,仏教の移入に深くかかわった。
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