風呂屋町(読み)ふろやちよう

日本歴史地名大系 「風呂屋町」の解説

風呂屋町
ふろやちよう

[現在地名]高岡市風呂屋町・川原本町かわらほんまち

旅籠はたご町の中ほどを北に折れ、南北に延びる両側町で、東はとおり町。本町で、町名は高岡築城の折、近在より寄せられた農民が風呂屋を始めたことによるという。当初は片原かたはら町付近にあったという。町の入口には木戸が設けられていた(不歩記)。時割は一時七歩二厘、地子地二千一八二歩九厘(同書)。明治六年(一八七三)には役地・地子地を含め二千四三九坪四合(沽券調総計帳)。天明五年(一七八五)の家数三四で(家数書上帳)、明治五年には家数五二(高岡史料)。当町の中野屋市助・甚太兄弟は明和九年(一七七二)孝子として町奉行から米五斗を与えられた(高岡市史)

風呂屋町
ふろやまち

[現在地名]富山市堤町通りつつみちようどおり一丁目

西にし町の東に続く両側町で、本町のうち。万治年間富山旧市街図に町名がみえる。東は西堤にしつつみ町に続き、当町東端を南に折れると米屋こめや町。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理によれば、もとは瀬戸物せともの町と称し、今も土中より瀬戸物の欠けたものが出るとされると記す。安永八年(一七七九)の本家数二五・貸家数一五(「町方旧記抜書」前田家文書)。前掲旧事調理では竈数四六、男八六・女八七。

風呂屋町
ふろやちよう

上京区五辻通千本西入

千本釈迦せんぼんしやか(大報恩寺)の東南に位置し、町のほぼ中央を東西に五辻いつつじ通が通り、西側は六軒町ろつけんちよう通。

康永三年(一三四四)、鎌倉末期の禅僧虎関師錬の創建と伝える楞伽りようが寺は、「坊目誌」には当町北にあったというが、中古京師内外地図には東隣の西五辻ひがし町にみえる。また中世尼五山の第一に置かれた禅寺景愛けいあい寺は、「坊目誌」は「西五辻東町」に記すが、中昔京師地図には当町辺りにみえる。いずれもその地は明らかでなく、近世までに廃寺となった(雍州府志)

風呂屋町
ふろやちよう

[現在地名]津和野町後田うしろだ

魚町うおちよう通の一筋北の東西道の両側に沿う町人町。西はかみノ町・同下ノ町に、東はよろず町下ノ町に接する。ほん町下ノ町により西の上ノ丁、東の下ノ丁に分れる。上ノ丁の北は祇園ぎおん町。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では町の長さ七六間。

風呂屋町
ふろやちよう

[現在地名]館林市本町ほんちよう一丁目

館林城大手門から西北に延びる並木町なみきちよう(太田往還)の南、かた町の西裏にあたり、札の辻ふだのつじ(大辻)東方にあった。延宝二年(一六七四)の城下町図には、城下の並木町から南へ通じる小路付近に風呂屋町と記される。この小路の中間から東奥に達磨だるま稲荷とよばれる小祠があったので、達磨小路ともいわれた。

風呂屋町
ふろやまち

[現在地名]島原市新町しんまち高島町たかしままち

島原城の南方新町の東にあたる。宝永四年(一七〇七)検地とある島原領内村明細帳では新町別当の管轄五ヵ町として「風呂屋町」がみえる。寛政四年(一七九二)島原惣町之図(長崎市立博物館蔵)では長さ一一七間・幅二間、東側に使者屋敷がみえる。

風呂屋町
ふろやちよう

[現在地名]赤穂市加里屋かりや

一町目筋の西端、出河原でがわら町の東端との間にあった風呂屋の町。松平輝興時代絵図、浅野家家中図(花岳寺蔵)に「風呂屋丁」とみえ、宝永元年(一七〇四)の加里屋町絵図には載らず、安永―享和(一七七二―一八〇四)頃の播州赤穂城下図(花岳寺蔵)にみえる。

風呂屋町
ふろやまち

[現在地名]大館市しん

城下町南部に位置する町人町。新町・なか町の東側を南北に走る道路沿いに存立。幕末の「郷村史略」に「新町鍛冶町之内大工町、柳町之内支配、風呂屋町同断」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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