街頭であめを売る商人。振売(ふりうり)の行商人と縁日などで露天営業するものとがあった。振売のほうは室町期に地黄煎(じおうせん)売の名で見え,江戸時代になるとさまざまな趣向をこらしたものが登場した。高価な砂糖を使った菓子には手が届かなかった階層,とくにそうした庶民の子どもたちがあめ売の最大の顧客であったから,奇抜な扮装をしたり,おもしろおかしい歌をうたって囃(はや)し歩くあめ売は人気のまとであった。明和(1764-72)のころ江戸では土平というあめ売が評判だった。トラの毛皮のような色に染めた木綿の袖なし羽織を着て浅黄の頭巾をかぶり,日傘をさして歩いた。寛政年間(1789-1801)には,張子の馬を腰につけた騎馬姿の唐人に扮して,唐人笛を吹き踊ってあめを売った〈ほにほろ〉が人気を集めた。〈ほにほろほにほろ〉とうたったことからの名で,のちに歌舞伎で騎馬武者に扮する役者が肩からつりさげて腰につけた馬のつくり物をこの名で呼ぶようになった。文政(1818-30)初期には〈あんなんこんなん〉と,これもわけのわからぬ文句を節おもしろくうたう唐人あめ売があり,〈其音声いやみな身ぶり,また外に類ひなし〉といわれた女装の〈おまんがあめ〉ともども,歌舞伎の所作事にとり入れられるほどはやったものであった。〈とっかえべえ〉といわれたのは,そう呼び歩いてこわれたなべ釜などとあめを取り替えたもので,正徳年間(1711-16)に紀州道成寺の鐘を造立するために浅草田原町の善右衛門なる者がはじめたといい,のちには古銅や古ぎせるなどと交換して歩く者もあった。明治以後はやったのは頭にあめを入れた大きなたらいをのせ,その縁に提灯を飾り,団扇(うちわ)太鼓をたたいて歩いた〈よかよかあめ屋〉である。これはのちに提灯を日の丸の小旗にかえ,昭和初期ころまで見られたものであった。
以上のようなあめ売とともに,あめ細工も人気があった。路傍に屋台をおろし,やわらかくした白あめをヨシの茎の先につけて,吹いてふくらませる。両手でおさえながら形をつくり,紅や青で彩色する。もっぱら鳥の形をつくったものと見え,〈今世モ飴ノ鳥ト云テ飴細工ノ惣名トス〉と《守貞漫稿》はいっている。あめ細工を曲芸ふうにして見せたのがあめの曲吹きで,安永年間(1772-81)には葺屋(ふきや)町の小芝居に出演したものもあったという。
執筆者:鈴木 晋一
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…江戸時代,京都西郊の桂の地に住み,特徴ある白布の被物(かずきもの)を頭に巻き,年頭八朔には天皇・公家・京都所司代をはじめ富豪・有力諸家に出入りし,婚礼・出産・家督相続などのさいに祝言を述べた桂女は,古くさかのぼると平安後期,桂供御人として天皇に桂川の鮎を貢献した鵜飼い集団の女性たちであった。鎌倉時代には鮎を入れた桶を頭上にいただく鮎売りの女商人であったが,生業の鵜飼いが衰える室町時代には鮎鮨,酒樽,勝栗などを持ち,畿内を中心に広く各地の公家・寺院・大名の間を遍歴する一種の遊女として姿を現す。…
…現在は連続する絵を順番に見せて,それに説明をつける小演芸あるいは視聴覚教育材をいう。江戸時代後期にオランダから幻灯が渡来するが,その映写機とスライドを使って映像が動いて見えるようにくふうした写絵,大阪では錦影絵が紙芝居の原型である。やがて寄席芸になったが,明治中期に写絵を寄席や隅田川の納涼船でやっていた両川亭船遊という芸人は,収入が少なくて人手や費用がかかりすぎる写絵をやめて,結城孫三郎という芸名でやっていた糸操りの人形芝居を専門とするようになった。…
※「飴売」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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