高内村
たかうちむら
[現在地名]夜久野町字高内
南流する牧川が流路をほぼ東に変える辺り、北岸に沿う但馬街道に南面する山麓に発達した集落。東は日置村、西北は大油子村。
弥生時代の高内遺跡から磨製石斧・石鏃などが出土し、横穴式石室を有する円墳長者森古墳からは直刀・馬具・金環・素環頭刀子などが出土した。そのほか円墳は藤原一号―四号墳、竹ノ内一号―三号墳など数多く分布し、古くから開けた地であったと思われる。また鎌谷一号―四号窯の須恵器登窯、同瓦登窯が残る。
中世の夜久郷地頭夜久氏の居住地といわれ、「丹波志」に「夜久主計旧栖」として「旧跡ハ壱丁余上ル山ナリ、韓堀土居等残レリ、主計弟ヲ夜久玄蕃ト云、何鹿郡物部村ニ住セリ、後天田郡川北村ノ中ニ山カチト云所ニ住セリ」と記す。
高内村
たかうちむら
[現在地名]寺泊町高内
万善寺村の南にあり、三島丘陵の北端を背後に負った集落。地名は万善寺の高の内とするもの、集落南部の標高三七メートルの丘の東斜面にある高内城主が村の開祖とするもの、落人が移住したとするものなど諸説が伝わる。正保国絵図には「高打村」高一四七石余で幕府領。以降の支配の変遷は大和田村と同じ。貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳では高一六一石五斗余。
高内村
たかうちむら
[現在地名]大沢野町高内
大沢野中位段丘南寄りに位置し、北は長附村、南は西大沢村、東は八木山村、西は稲代村。地名の由来は高安某が高内と名付けたという(大沢野耕地整理事業誌)。富山藩領。慶応三年(一八六七)から大沢野用水の開削事業が開始され、明治元年(一八六八)に完通。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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