高尾城跡
たこうじようあと
[現在地名]金沢市高尾町
金沢市街南方に連なる富樫山地(倉ヶ岳の北麓にあたる)の通称高尾山(約一七〇メートル)に所在する。高生・多胡とも記し、「たかお」ともよんだ。城山・古城とよばれる地域を中心とし、いくつかの城塞群からなる。長享二年(一四八八)の一向一揆で、加賀守護富樫政親が一揆軍に包囲されて自刃、最期を迎えた地として著名。なお当地を含む手取川扇状地の東縁一帯、近世の高尾村・四十万村や、いわゆる額七ヵ村付近は加賀斎藤系武士団富樫氏の開発本領である富樫郷(富樫本庄)の地と推定されており、史料上、富樫館・富樫城などとみえる城郭は当城のことをさすとも考えられる。しかし、少なくとも南北朝期以降、守護富樫氏の居館、富樫館は野市(現野々市町)に置かれており、諸史料にみえる富樫館(城)が当城にあたるのか、野市の居館をいうのか、あるいは他所に築かれた城をさすのか判然としない場合もある。
「平家物語」によれば寿永二年(一一八三)四月末、越前燧(火打)城(現福井県今庄町)の合戦で敗走した加賀の林・富樫両氏は、五月、平氏軍の追撃により彼らの城郭も落されている。延慶本「平家物語」巻三末(義仲白山進願書事)では林六郎光明・富樫太郎らの「城郭ヲ二ケ所ヲ打落シ」とみえ、「源平盛衰記」巻二八(北国所々合戦事)、「保暦間記」でも同様のことが記される。
高尾城跡
たかおじようあと
[現在地名]西条市氷見
氷見村本郷より南約二キロにある尾土居山(二三〇メートル)上にある戦国期の山城。上段(東西一六間、南北二〇間)、中段(東西七間、南北一二間)、下段(東西七間、南北四間)の三段の平坦面から構成され、城の東西両側面には、背後の山地から発する深い渓谷があり、南側には空堀を設けるなど要害堅固な城であった。北麓に城主の居館とみられる里城があった。
高尾城跡
たかおじようあと
[現在地名]芦北町告 城平
桑沢見・城平集落南東部、集落との比高約二四〇メートルの山頂にある。山頂部分も城平の地名をもつ。城へ登る道ははって登るという意味の「へさか越」とよばれるほどの急斜面をなす。山頂部分は城、もしくは城のとっぺんとよばれ、幅一五メートル・長さ一〇〇メートルで主軸が南北方向をなす長円形の平地。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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