日本大百科全書(ニッポニカ) 「高橋是清内閣」の意味・わかりやすい解説
高橋是清内閣
たかはしこれきよないかく
(1921.11.13~1922.6.12 大正10~11)
立憲政友会総裁高橋是清を首相とする政党内閣。1921年11月4日原敬(はらたかし)首相が中岡艮一(こんいち)に東京駅頭で暗殺されたため内閣は総辞職した。しかし同月12日よりワシントン海軍軍縮会議が開催されていたため、政変を避けようとの元老の意向により、原内閣の高橋是清蔵相が蔵相を兼任したまま首相となり、原内閣の全閣僚が留任して発足した。高橋は第一次世界大戦後の内外情勢に対応すべく、外交面ではワシントン会議の方針に沿った軍縮政策をとり、ワシントン条約に調印した。内政面では、亡き原首相のもとでは選挙法改正による選挙権拡張の漸進的方針をとっていたが、高橋内閣のときには、憲政会、国民党から提出された普通選挙法案を与党の反対で否決した。一方、政府は過激社会運動取締法案を提出したが審議未了に終わった。高橋首相は、政党内閣のたてまえから、1921年12月に政友会総裁に就任したが、言い伝えられるごとく、閣僚の名前や有力党幹部の名前も失念するようなありさまで、とうてい原敬のような政党統率の器ではありえなかった。財政官僚としては最高の実績・実力を備えた高橋ではあったが、軍縮の線で緊縮政策をとろうとする首相、横田千之助(よこたせんのすけ)法制局長官、野田卯太郎(のだうたろう)逓相(ていしょう)らと、原敬以来の積極政策を維持しようとする床次竹二郎(とこなみたけじろう)内相、中橋徳五郎(なかはしとくごろう)文相、元田肇(もとだはじめ)鉄道相らとの対立が激しくなり、高橋は中橋、元田の閣外追放に失敗(高橋内閣改造問題)、閣内不統一のため短期間で内閣を投げ出し、かわって加藤友三郎内閣が成立した。
[長 幸男]