中橋徳五郎(読み)ナカハシトクゴロウ

デジタル大辞泉 「中橋徳五郎」の意味・読み・例文・類語

なかはし‐とくごろう〔‐トクゴラウ〕【中橋徳五郎】

[1861~1934]実業家政治家石川の生まれ。大阪商船社長を退いて政界に入り、政友会所属文相・商工相・内相などを歴任

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精選版 日本国語大辞典 「中橋徳五郎」の意味・読み・例文・類語

なかはし‐とくごろう【中橋徳五郎】

  1. 実業家。政治家。加賀出身官吏から出て関西財界で活躍。大阪商船社長を退いてのち、政界に入り文相、商工相、内相などを歴任。文久元~昭和九年(一八六一‐一九三四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中橋徳五郎」の意味・わかりやすい解説

中橋徳五郎
なかはしとくごろう
(1861―1934)

明治後期から昭和初期の実業家、政治家。文久(ぶんきゅう)1年9月10日加賀藩士斎藤宗一の五男として金沢に生まれ、のち中橋家の養子となった。東京大学法科大学選科卒業。判事試補、農商務省参事官、法制局参事官などを経て逓信(ていしん)省に入り、会計局長、監査局長、鉄道局長などを歴任。1898年(明治31)退官とともに大阪商船会社社長に迎えられ、関西財界に重きをなした。ついで政界に投じ、1912年以来衆議院議員当選7回。立憲政友会に入党し、1918年(大正7)原敬(はらたかし)内閣の文相となったが、原の死後、後継総裁・総理の高橋是清(これきよ)らと対立し、1922年高橋内閣改造に反対して内閣総辞職の原因をつくった。1924年清浦奎吾(きようらけいご)内閣支持を唱えて政友会を脱党し、政友本党結成に参画。のち政本合同の運動を進めて政友会に復党し、1927~1929年(昭和2~4)田中義一(ぎいち)内閣の商工相、1931年犬養毅(いぬかいつよし)内閣の内相を務めた。昭和9年3月25日死去。

鳥海 靖]

『牧野良三編『中橋徳五郎』上下(1944・中橋徳五郎翁伝記編纂会/復刻版・1995・大空社)』


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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「中橋徳五郎」の解説

中橋 徳五郎
ナカハシ トクゴロウ


肩書
内相,商工相,文相,衆院議員(政友会),大阪商船社長

旧名・旧姓
旧姓=斎藤

別名
号=狸庵

生年月日
文久1年9月10日(1861年)

出生地
加賀国金沢(石川県金沢市)

学歴
金沢専門学校文学部卒 東京大学選科〔明治19年〕卒

経歴
大学院で商法専攻。明治19年判事試補となり横浜始審裁判所詰。20年農商務省に移り、参事官、22年衆院制度取調局出仕となり欧米出張。帰国後衆院書記官、逓信省参事官、同監査局長、鉄道局長を歴任。31年岳父で大阪商船社長の田中市兵衛の要請で同社長に就任。台湾航路の拡大など社運をばん回、大正3年まで務めた。かたわら日本窒素、宇治川電気などで重役、熊本県水俣町に窒素肥料工場を建設。さらに渋沢栄一らと日清汽船を創設、取締役。一方衆院議員当選6回、政友会に入り、7年原敬、10年高橋是清両内閣の文相を務めた。13年政友本党、14年政友会復党。昭和2年田中義一内閣の商工相、6年犬養毅内閣内相となった。

受賞
勲一等旭日桐花大綬章

没年月日
昭和9年3月25日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「中橋徳五郎」の解説

中橋 徳五郎
ナカハシ トクゴロウ

明治〜昭和期の政治家,実業家 内相;商工相;文相;衆院議員(政友会);大阪商船社長。



生年
文久1年9月10日(1861年)

没年
昭和9(1934)年3月25日

出生地
加賀国金沢(石川県金沢市)

旧姓(旧名)
斎藤

別名
号=狸庵

学歴〔年〕
金沢専門学校文学部卒,東京大学選科〔明治19年〕卒

主な受賞名〔年〕
勲一等旭日桐花大綬章

経歴
大学院で商法専攻。明治19年判事試補となり横浜始審裁判所詰。20年農商務省に移り、参事官、22年衆院制度取調局出仕となり欧米出張。帰国後衆院書記官、逓信省参事官、同監査局長、鉄道局長を歴任。31年岳父で大阪商船社長の田中市兵衛の要請で同社長に就任。台湾航路の拡大など社運をばん回、大正3年まで務めた。かたわら日本窒素、宇治川電気などで重役、熊本県水俣町に窒素肥料工場を建設。さらに渋沢栄一らと日清汽船を創設、取締役。一方衆院議員当選6回、政友会に入り、7年原敬、10年高橋是清両内閣の文相を務めた。13年政友本党、14年政友会復党。昭和2年田中義一内閣の商工相、6年犬養毅内閣内相となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中橋徳五郎」の意味・わかりやすい解説

中橋徳五郎
なかはしとくごろう

[生]文久1(1861).9.10. 金沢
[没]1934.3.25. 東京
政治家,実業家。金沢藩士斎藤宗一の5男として生れ中橋家を継いだ。 1886年東京大学選科卒業後,農商務省に入ったが,98年逓信省鉄道局長を最後に実業界に入り,大阪商船社長に就任。 1912年衆議院議員,14年立憲政友会総務を経て,18年原敬,21年高橋是清両内閣の文相となったが,大学昇格問題で高橋首相と争い,22年内閣瓦解とともに政友会を除名された。 24年には床次竹二郎政友本党を結成し顧問となった。 25年政友会に復帰し,27年には田中内閣の商工大臣,31年犬養内閣の内務大臣をつとめた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中橋徳五郎」の解説

中橋徳五郎 なかはし-とくごろう

1861-1934 明治-昭和時代前期の実業家,政治家。
文久元年9月10日生まれ。逓信省鉄道局長などをへて大阪商船社長となる。のち日本窒素肥料会長をかねる。明治45年衆議院議員(当選7回,政友会)。原・高橋内閣の文相,田中義一内閣の商工相,犬養内閣の内相などを歴任。昭和9年3月25日死去。74歳。加賀(石川県)出身。帝国大学卒。旧姓は斎藤。

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367日誕生日大事典 「中橋徳五郎」の解説

中橋 徳五郎 (なかはし とくごろう)

生年月日:1861年9月10日
明治時代-昭和時代の政治家;実業家。大阪商船社長
1934年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の中橋徳五郎の言及

【政友本党】より

…立憲政友会(政友会)から分裂した政党。1921年11月原敬暗殺後,政友会内は,第1次大戦後の不況や普選運動の高揚に対応して財政緊縮や普選問題の解決を企図する高橋是清総裁,横田千之助ら改造派(のち非改革派)と,積極財政・普選反対等の従来の政友会路線を維持しようとする床次(とこなみ)竹二郎,中橋徳五郎ら非改造派(のち改革派)の対立が激化した。24年1月清浦奎吾(けいご)内閣の成立を契機に,前者は憲政会,革新俱楽部と結び普選等をスローガンに第2次護憲運動を起こし,後者は脱党して政友本党を組織し清浦内閣の与党となった。…

※「中橋徳五郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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