高橋財政 (たかはしざいせい)
高橋是清が主導した財政。高橋は7代の内閣で蔵相になったが,特色ある財政運営は,原敬,高橋是清内閣時代と犬養毅,斎藤実,岡田啓介内閣時代に見られ,一般には後者を高橋財政と呼んでいる。
金解禁・緊縮主義の井上財政のあとをうけて犬養内閣の蔵相となった高橋には,満州事変の戦費の捻出と昭和恐慌への対処という二つの政策課題が課された。1931年12月13日,つまり蔵相就任当日に,金輸出再禁止をして金本位制を停止し,事実上の管理通貨制度への移行を行ったことによって,高橋は積極財政を展開するための前提条件をととのえた。五・一五事件後,斎藤内閣の蔵相に留任した高橋は,32年度予算を軍備拡張と時局匡救(きようきゆう)の経費を中心とした膨張予算とし,歳計の赤字は歳入補てん公債で賄う積極方針を採用した。時局匡救費は内務省と農林省の所管する土木事業費が中心で,不況下の都市と農村に一時的雇用機会をつくりだして国内需要を拡大させる恐慌対策であったが,増大する軍事費に圧迫されて34年度までの3ヵ年で打ち切られた。高橋は,赤字公債日本銀行引受発行方式を考案した。昭和恐慌で萎縮した国内需要を,赤字公債を財源とする積極財政で刺激し,景気回復を図り,企業利潤の好転で民間の資金蓄積が進むようになったときに,日本銀行が引受公債を民間に売却して日銀券を回収し,通貨の過剰化を回避するという構想であった。高橋財政の展開とともに,日本経済は景気の回復過程に入った。はじめは,軍事費と時局匡救費の撒布による国内需要の拡大が景気回復に大きく寄与したが,その後は,輸出の拡大と民間需要の回復が景気上昇を支えた。輸出拡大は,金輸出再禁止後に円の為替相場が急落したため,日本製品の対外競争力が強くなった結果であった。為替下落に対して高橋蔵相はしばらくは放任主義をとり,1933年春になって外国為替管理法による為替統制を開始した。円を低い水準で安定させて輸出を伸ばした日本に対して,外国は為替ダンピングであるとの非難をあびせた。また高橋は,輸入関税を引き上げて輸入を防遏(ぼうあつ)する保護政策も実施した。低為替と関税障壁は,ブロック経済化に進んだ1930年代の世界的な潮流であった。
高橋の財政運営は,景気回復が顕著になったころから微妙な変化を示し,34年度予算編成では財政収支の均衡が強く意識されはじめた。赤字公債の発行には限界があり,過剰発行が悪性インフレーションを引き起こすことを高橋は警戒した。財政の健全化が大きな課題となったが,そのためには膨張する軍事費の抑制が不可欠であった。岡田内閣の藤井真信蔵相が病気退任ののち7回目の蔵相就任を受諾した高橋は,36年度予算編成に際して公債漸減方針を掲げ,軍事費の拡大を最小限に抑え込み,財政の生命線を守ろうとした。前期高橋財政が積極主義を特徴とするのに対比して,後期高橋財政は財政健全化の努力に特質を持っていた。しかし軍事費抑制は軍部の強い反発を招き,二・二六事件で高橋老蔵相は惨殺され,以後の日本財政は歯止めを失って膨張の一途をたどる。
管理通貨制のもとに財政金融政策を軸に景気調整政策を展開した高橋財政は,世界史上最初のケインズ主義的経済政策と評価することができるし,原・高橋内閣時代の高橋の財政運営にも,その先駆的あらわれを認めることができる。高橋財政を機に,日本も現代資本主義あるいは国家独占資本主義の時代に入ったといえよう。
執筆者:三和 良一
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高橋財政【たかはしざいせい】
1931年12月から1934年7月に至る犬養毅・斎藤実・岡田啓介内閣時代の,蔵相高橋是清の主導による財政運営。大恐慌の影響による深刻な不況(昭和恐慌)に対して,高橋は金輸出を再禁止(〈金輸出禁止〉参照),金本位制度を停止した。これにより金流出によるデフレ効果を断ち,為替相場を円安に転換させ,世界的な不況の圧力を緩和した。そして,事実上の管理通貨制度に移行することによって,軍事費の拡大,時局匡救事業などの積極的な財政政策を展開した。これらの歳出の増加を賄うために,高橋は赤字公債の日銀引受発行方式を新たに導入した。景気回復とともに,インフレの懸念から財政の健全化へと政策を転換していった。しかし,二・二六事件(1936年)で高橋が暗殺されると,日本財政は膨張の一途をたどった。
→関連項目井上財政|高橋是清内閣
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高橋財政
たかはしざいせい
高橋是清(これきよ)は7代の内閣で蔵相を務めたが、そのうちとくに犬養毅(いぬかいつよし)、斎藤実(まこと)、岡田啓介(けいすけ)内閣時代、すなわち1931年(昭和6)12月から36年2月までの財政運営を一般に高橋財政とよんでいる。これに先だつ井上財政の金解禁・緊縮財政が大恐慌によって破綻(はたん)した後を受けて、犬養内閣の高橋蔵相には満州事変の戦費捻出(ねんしゅつ)と恐慌対策という二つの課題が課された。31年12月13日、つまり蔵相就任当日に金輸出再禁止を実施し、金本位制を停止して管理通貨制へ移行し、積極財政展開の前提条件を整えた高橋は、翌32年度予算を軍備拡張と土木事業を中心とした時局匡救(きょうきゅう)の膨張予算とし、歳計の赤字を日本銀行引受による公債発行でまかなうこととした。こうした財政展開は日本の景気を大きく回復させ、世界史上初のケインズ主義的財政政策と評価されている。
一方、金輸出再禁止後の円の為替(かわせ)相場は急落して輸出が増加したが、高橋はしばらく放任主義をとり、やがて1933年春に為替管理を開始して、円相場の低位安定、輸出促進を図ったが、諸外国はこれを為替ダンピングと非難した。やがて景気回復とともに高橋は、赤字公債発行によるインフレ懸念から財政均衡を意識するようになり、36年度予算で公債漸減・軍事費抑制方針を打ち出したが、軍部の強い反発を招いて、ついに二・二六事件で暗殺されるに至る。以後、日本財政は歯止めを失って膨張の一途をたどった。
[一杉哲也]
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高橋財政
たかはしざいせい
満州事変後の犬養,斎藤,岡田の各内閣で大蔵大臣をつとめた高橋是清が行なった財政政策。前任の井上準之助が主導した金解禁 (金本位制度復帰) のための緊縮財政に反対し,低為替,低金利,財政支出拡大の積極政策をとった。これはケインズが主張した有効需要創出策を経験的に先取りしていた面があり,高橋を「日本のケインズ」と呼ぶ者もいる。金輸出再禁止,対米為替相場放置により為替は低落し,金本位制度時代の1ドル=2円弱から 1932年末には約3円強の水準で安定,金利も公定歩合引下げにより 31年末の 6.57%から 33年7月には 3.65%に低下し,企業利益の回復,輸出の増大,株価の騰貴をもたらした。また財政は,32,33年度予算において 15億円弱から 20億円台に急激に膨張したのち,36年まで 22億円台が続いた。この財源が増税によらず日本銀行引受けの公債発行に求められたところに特徴がある。財政支出増加は経済全体を刺激し,輸出・国内資本形成において大幅な生産誘発効果をもった。軍事支出も増加したが,生産誘発効果からみれば軍需がこの時期の経済成長を主導したとはいいがたい。高橋財政は多くの成果をあげたが,二.二六事件によって高橋が倒れ,日本は戦時経済体制に突入していった。
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高橋財政
たかはしざいせい
1931年(昭和6)12月以降,犬養・斎藤・岡田各内閣で蔵相を務めた高橋是清(これきよ)が担当した財政運営。浜口内閣の金解禁政策が深刻な不況と多額の金流出をもたらしたのに対し,高橋は金輸出を再禁止して金流出のデフレ効果を断ち,為替下落はしばらく放置して輸出増大に結びつけ,33年春に外国為替管理法による為替統制を開始した。また時局匡救(きょうきゅう)費と軍事費を柱とする膨張予算の財源調達策としては,日本銀行引受け方式による多額の赤字公債発行と預金部資金融通で景気回復を待った。高橋は34年11月岡田内閣の藤井真信(さだのぶ)蔵相の退任で再び蔵相になると,財政健全化のために公債漸減方針を掲げて軍部と対立し,2・26事件で殺害された。以後,財政運営は戦時財政へと進んだ。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の高橋財政の言及
【国債】より
…なお,準国債といえる[大蔵省証券]は1884年から発行されている。 井上財政に次いで[昭和恐慌]からの脱却を課題とした[高橋財政]は,時局匡救(きようきゆう)事業費,満州事変を契機とする軍事費の増大を牽引車に,景気回復を図った。そのため1932‐36年に約447億円の国債が発行されたが,金本位制からの離脱,日銀保証準備発行限度の拡張を前提に8割以上が日銀引受けの方法をとった点に特徴がある。…
【昭和恐慌】より
…高橋蔵相の任務は,国内的には恐慌からの脱出,国外的には満州侵略のための軍備強化,この二つの課題をいかにして遂行するかにあった。[高橋財政]は,この任務を遂行するにあたって,井上財政とはまったく逆の道をえらんだ。すなわち井上が緊縮財政と高金利によって物価を引き下げ,国際収支の改善をはかろうとしたのに対して,高橋は低金利と公債発行によるインフレ政策を採用して,経済に刺激をあたえ,これによって景気の回復をはかろうとしたのである。…
【予算】より
… 31年,高橋是清蔵相は,金の輸出を停止したうえで,満州事変に伴う軍事費の増大等のための財政支出を赤字公債で賄うという積極政策により,景気の回復を図った。この高橋財政はいちおう成果をあげ,日本は各国に先がけて恐慌から立直りをみせた。しかし,36年の二・二六事件により高橋蔵相が暗殺され,翌37年,日華事変が勃発すると,日本の財政は急速に戦時色を強めていくことになる。…
※「高橋財政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」