高萩村(読み)たかはぎむら

日本歴史地名大系 「高萩村」の解説

高萩村
たかはぎむら

[現在地名]日高市高萩

上大谷沢かみおやざわ村・下大谷沢村の北にあり、東は下高萩村。小畔こあぜ川が北部を東流、その南方を同川支流下小畔川・南小畔川が北東流する。日光脇往還がほぼ南北に通り、小名宿しゆくには同往還の宿駅が置かれていた。東方の下高萩村に対し、上高萩村とも称された。文安元年(一四四四)一二月一三日の旦那譲状写(相馬家文書)に「筥根山御領属高萩駒形之宮二所」とみえ、相模箱根山領である高萩駒形こまがた宮二所の旦那職が山本やまもと(現越生町)から豊前阿闍梨へ譲渡されている。永正一四年(一五一七)五月一四日には「高萩之実相寺」等に入西につさい郡の内出戸より上の修験支配の権利を返したことが山本坊に伝えられている(「出雲守直朝・弾正忠尊能連署証状写」同文書)。同一六年四月二八日の伊勢宗瑞知行注文(箱根神社文書)では、宗瑞(伊勢長氏)から子息菊寿丸(北条長綱)に譲られた箱根山領のうちに「むさしたかはき」五一貫文があった。

高萩村
たかはぎむら

[現在地名]高萩市高萩・ほん町・春日かすが町・大和やまと町・東本ひがしほん町・高浜たかはま町・有明ありあけ町・肥前ひぜん

東は海に面し、海岸線に沿って平地が開け、西部は台地。北は高戸たかど村・下手綱しもてつな村。岩城相馬いわきそうま街道(現県道)が南北に通る。

正平一五年(一三六〇)の後村上天皇綸旨案(「脇文書」和歌山県伊都郡脇家原蔵)に「多珂郡内伊石高萩」とみえ、文禄四年(一五九五)岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)に「五百拾三石七斗六升五合 あいや分高萩村」とある。

高萩村
たかはぎむら

[現在地名]三珠町高萩

ぬた村の南東あし川中流域の山間村。南は折門おりかど峠・地蔵じぞう峠の嶺線をもって折門村(現下部町)、北はおお峠の嶺線をもって大鳥居おおとりい(現豊富村)に接する。天正五年(一五七七)二月二二日の武田家印判状写(西湖区有文書)に「高萩之郷」とみえる。同郷は九一色くいしき郷の一で諸役免許が安堵された。これは「九一色諸商売之役」に対する免除であった(天正一〇年七月一二日「徳川家康印判状写」同文書)。高萩郷はもと畑熊はたくま中山なかやま・垈と折門の諸村を含んだ地域の称であったが、慶長六年(一六〇一)の検地でそれぞれが分村したといわれる。慶長古高帳に高萩村とみえ高三六石余。

高萩村
たかはぎむら

[現在地名]栗源町高萩

岩部いわべ村の東に位置する。栗山くりやま川の水源の一つが高萩原から発し、同原は油田あぶらた牧の南半分に相当した。源頼朝の愛馬摺墨は同原産とする伝承がある。部冊帳(伊能家文書)に村名はみえないが、慶長四年(一五九九)に矢作縄と称する検地を受けたとみられ、高一四一石余・反別一一町九反余(延宝六年「矢作領持高分帳」石橋家文書)。延宝九年(一六八一)検地帳(平山家文書)では高二八九石余・反別二四町四反余で、旗本大久保領(一四一石余)・同弓気領(一一九石)・同酒井領(二〇石)・同浅野(八石余)の四給。

高萩村
たかはぎむら

[現在地名]いわき市小川町高萩おがわまちたかはぎ

南東流する夏井なつい川右岸にあり、東は三島みしま村、南は西小川村、北西塩田しおだ村、対岸は上平うわだいら村。磐前いわさき郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄一五年(一七〇二)幕府領、寛延二年(一七四九)常陸笠間藩領、安永六年(一七七七)幕府領、翌七年磐城平藩預、寛政二年(一七九〇)以降笠間藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高三六〇石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)に小河高萩村とみえ、高四四〇石余。

高萩村
たかはぎむら

[現在地名]佐野市高萩町・栄町さかえちよう北茂呂町きたもろちよう茂呂山町もろやまちよう

越名こえな沼の西に位置し、北は浅沼あさぬま村・鐙塚あぶづか村。元和元年(一六一五)の寺領朱印之事(惣宗寺文書)に村名がみえ、当村二三石が惣宗そうしゆう寺領となり、高の増減なしで幕末まで続く。寛政九年(一七九七)の高萩・鐙塚村物成控(同文書)では田八町三反余・畑六三町余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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