改訂新版 世界大百科事典 「魔女裁判」の意味・わかりやすい解説
魔女裁判 (まじょさいばん)
witch trials
魔女に対する訴追をいう。広義の魔女ないし魔術師を裁くことは古代ローマ期から存在し,フランク王国でも民衆による魔女追及が過度に及ぶことに対する禁令が発せられている。多数の異なった社会でみられるこのような現象が,ヨーロッパ社会にとって深刻な事態に変容するのは,13,14世紀のことであった。当時キリスト教会は,12世紀末以来直面してきた異端問題に対して,制度的対応を確立させていたが,魔女つまり特異能力をもった女性が行うと信じられていた妖術もまた,その異端の教説または行為とみなされた。このような中で,1258年,1320年と,ローマ教皇は異端審問の範囲内で魔女訴追を行うことを正当とする教書を発する。
15世紀には,従来の異端が影をひそめたのに対して,社会的不安に由来する魔女恐怖が表面化し,この事態に対応して,1486年,魔女論の古典といわれるJ.シュプレンガーとH.クレーマーによる《魔女の槌》がドイツで出版される。この著作は魔女を定義したばかりか,魔女裁判の方式を子細に述べている。従来の異端審問を当該の問題に関して詳述したもので,逮捕,尋問,証人,判決にいたる諸手続を論ずる。それによれば,被疑者は,妖術を用いないよう裸にされ,獄につながれる。裁判官は自白を勧め,それに従わない場合には,綱でしばって拷問にかける。《魔女の槌》ののち,活版印刷術の発明による出版革命もあずかって16,17世紀には多数の魔女論や悪魔学(デモノロジー)の著作が書かれた。その代表作としてJ.ボーダン《魔術師の悪魔狂》(1580),N.レミー《悪魔礼拝》(1595),スコットランド王ジェームズ6世(後のイングランド王ジェームズ1世)《悪魔学》(1597),H.ボゲ《魔女論》(1602)などを挙げることができる。裁判官はこれらの教説にてらして被疑者を尋問した。魔女集会(サバト),悪魔との性交,呪いなどは,この間に作られた魔女像である。
16世紀には宗教改革をめぐる対立が深刻化したこともあって,魔女に対する凶悪な訴追が急増した。イギリスにはM.ホプキンズのような,〈魔女の発見〉を職業とする人物も現れている。彼は広くイングランドの各地を歩いて300人に上る魔女を告発・処刑したという。社会的素因による集団ヒステリーの犠牲者として被告席に連れてこられた女性は,拷問による虚偽の自白や,風説による証言,裁判官による誘導尋問によって,異端裁判法廷で有罪を宣せられた。裸にして後手にしばり,水中に沈めて浮きあがったものを有罪とするという,神明裁判(神裁)の一種もよく知られているものである。魔女の罪は火刑に値するとされ,事実多くの女性が犠牲となった。ちなみにジャンヌ・ダルクも1431年,魔女の科で焚刑にあっている。魔女裁判の記録は多数残されており,この時代にヨーロッパ社会がおちいった,逃れようのない悲惨な状況を語り明かしている。人々は,たがいに密告の恐怖におびえて,他人に無実の罪をおしつけようとしていた。魔女の嫌疑自体は冤罪であるにしても,常人とはちがう能力をもつ女性が存在したことは確かであり,そのような女性が社会的な供犠の祭壇にまつりあげられた経緯を詳細に分析するという課題が,現在の歴史学には残されているといえよう。近年の新しい魔女,魔女裁判研究の高まりは,そのような問題意識を反映しているものである。
18世紀の到来と啓蒙理性の台頭によって,魔女裁判は禁止の対象となり消滅していった。基本的には,魔女裁判は13世紀ころから17世紀にかけて,ヨーロッパ世界が近代を迎える過程で体験した,すぐれて歴史的な事件だったことになる。しかし,社会的供犠をもとめる〈魔女狩り〉や魔女裁判は,形をかえてしばしば現代世界にも出現することは否定できない。
→異端審問 →魔女
執筆者:樺山 紘一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報