人類学,考古学者。徳島市船橋町に生まれる。小学校を中途退学し,後はほとんど独学自習した。人類学に興味を持ち,17歳のとき東京人類学会に入会。会長坪井正五郎に認められ,1893年東京帝国大学理科大学人類学教室標本整理係を命ぜられた。同年遼東半島に,また96年台湾に人類学調査に派遣され,以来約半世紀余の間,台湾,雲南,貴州,四川,満州(中国東北),内蒙古,朝鮮半島,北千島,樺太,東部シベリアなどで長期間または回を重ねて人類学調査に従事した。当時日本ではこれらの地方の研究は未発達で,その成果は内外の人類学界に貢献した。またその間,国内全域にわたり遺跡遺物を調べ,考古学の地域研究に寄与するとともに,東アジア各地の民族文化に関する該博な学識をもって日本文化を分析した。東京帝大助教授,国学院大,上智大,燕京大の教授を歴任した。膨大な著作は《鳥居竜蔵全集》全12巻(1976)に網羅されている。
執筆者:八幡 一郎
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1870.4.4~1953.1.14
明治~昭和前期の人類学・民族学・考古学者。徳島県出身。東京帝国大学人類学教室で坪井正五郎に師事。当初は坪井を助けて国内各地を調査したが,1895年(明治28)の中国遼東半島の調査を皮切りに,千島・台湾・中国南部・同東北部・朝鮮・モンゴル・シベリアなどの考古学的・人類学的調査に従事。日本人として空前絶後の行動で,調査結果は先駆的業績として評価された。この間,東京帝国大学から上智大学,さらに中国燕京(えんきょう)大学に転じた。著書「有史以前の日本」「考古学上より見たる遼之文化」。
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…ほとんどがヤマトシジミで占められる(98%以上)奥湾性貝塚で,貝層が北側台地上を覆う広大な貝塚であったらしいが,現在は台地上の神社付近と,台地北側崖線付近に残存するにすぎない。古くから知られ,鳥居竜蔵,小林久雄らによって調査され,隣接の阿高貝塚とともに,九州縄文土器編年の基本となった。1951年金関丈夫,坪井清足らによって発掘調査が行われ,貝層中より後期御領式土器,貝層下より西平式土器が出土した。…
…その代表的な遺跡に紅山後,夏家店,薬王廟などがある(夏家店遺跡)。赤峰付近の遺跡は,1908年鳥居竜蔵の踏査以来,その存在は古くから知られていた。35年東亜考古学会の浜田耕作らが紅山後を調査し,また56年には呂遵諤,裴文中らが紅山後の北大溝と紅山前を調査した。…
※「鳥居竜蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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