鳥羽屋里長(読み)とばやりちょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鳥羽屋里長」の意味・わかりやすい解説

鳥羽屋里長
とばやりちょう

長唄(ながうた)および豊後節(ぶんごぶし)の三味線方。鳥羽屋の始祖は鳥羽屋三右衛門(さんえもん)(1712?―67)で、里長の名は7世まであるが、初世がもっとも名高く、現7世は長唄の唄方である。

[林喜代弘・守谷幸則]

初世

(1738―94/95)上総(かずさ)(千葉県)生まれの盲人で里都(さとのいち)と称した。1754年(宝暦4)江戸へ出て三右衛門に学ぶ。81年(天明1)富本(とみもと)に属し、2年後に一門の里桂(りけい)兵助らと常磐津(ときわず)に転じ、初世兼太夫(かねたゆう)の三味線弾き、『関の扉(せきのと)』『古山姥(ふるやまんば)』『戻駕(もどりかご)』などの名曲を残す。常磐津節の競争相手である富本節作曲を行ったため、91年(寛政3)常磐津方と不和を生じて離脱、翌年には5世都一中(みやこいっちゅう)の依頼で『傾城浅間嶽(けいせいあさまがたけ)』を作曲、さらにふたたび富本に戻ったが、94年以降の消息は不明である。

[林喜代弘・守谷幸則]

2世

生没年不詳。初名里桂(りけい)。盲人。初世の常磐津離脱後に故沢(ふるさわ)と改姓してそのまま残り、立(たて)三味線となった。1795年(寛政7)里を里と改めて鳥羽屋の旧姓に戻り、翌年冬に2世を襲名した。98年、一門とともに富本に移ったが、1820年(文政3)以降の消息は不明。

[林喜代弘・守谷幸則]

3世

生没年不詳。常磐津三味線方初世岸沢八五郎の門弟古市。古市は2世八五郎を名のったが、一時清元に転じて清元八五郎となり、さらに1846年(弘化3)富本に移り、里長の名義を譲られて復活した。4世は4世清元斎兵衛(さいべえ)が一時名のり、5世は7世富本豊前太夫(ぶぜんだゆう)の兄が名のって長唄の三味線を弾く。そしてその妻が6世を継いだ。

[林喜代弘・守谷幸則]

7世

(1936― )本名川原寿夫(としお)。長唄唄方の芳村伊千十郎(よしむらいちじゅうろう)が1974年(昭和49)に襲名した。2002年(平成14)重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。

[林喜代弘・守谷幸則]

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改訂新版 世界大百科事典 「鳥羽屋里長」の意味・わかりやすい解説

鳥羽屋里長 (とばやりちょう)

常磐津,富本,清元の三味線方。(1)初世(1738-94?/元文3-寛政6?) 上総出身の盲人。里の都(いち)と称す。17歳で江戸の初世鳥羽屋三右衛門に師事。三味線を学んで里長と名のり,1781年(天明1)富本豊前(武前)太夫の脇三味線(立三味線名見崎徳治)を勤める。83年初世常磐津兼太夫の三味線方となり,同時に一門の里桂,兵助らも常磐津に入る。《子宝三番叟》などの作曲のほか2世岸沢式佐との合作に《関の扉》《古山姥》《戻駕》などがある。91年(寛政3)常磐津方と不和になり,11月の江戸河原崎座を最後に再び富本へ戻る。(2)2世 生没年不詳。初世の高弟。盲人。初名里桂。師とともに富本から常磐津へ移る。1791年師の富本移籍後,故沢(ふるさわ)と改姓し,常磐津に留まり立三味線となる。94年11月里慶と改め,95年8月鳥羽屋姓に戻り,96年11月里長襲名。97年11月2世兼太夫は3世古式部を立三味線に,里長を脇に回したためか,翌年2月に門弟里夕,里桂を引き連れて富本へ走った。1820年(文政3)9月の中村座を最後に消息不明。(3)3世 生没年不詳。初世岸沢八五郎門弟。初名古市。1826年(文政9)師の市蔵改名と同時に2世八五郎襲名。41年(天保12)5月師とともに佐々木姓復帰。43年清元に移り清元八五郎と称したが,46年(弘化3)富本に移り里長襲名。明治期に里長を名のる者があったが一時的なものであった。

 なお現在は,長唄の唄方が7世里長(1936(昭和11)- 。芳村五郎治の長男川原寿夫が1975年に伊千十郎から襲名)を名のっている。
執筆者:

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「鳥羽屋里長」の解説

鳥羽屋 里長(5代目)
トバヤ リチョウ


職業
長唄豊後節三味線方

本名
榎本 欽太郎

別名
別名=六字 南無右衛門,鳥羽屋 三十郎

生年月日
明治16年

出生地
東京

経歴
鳥羽屋里長の名で長唄の三味線を弾き、一時六字南無右衛門を名乗ったが、のち鳥羽屋三十郎と称した。

没年月日
昭和19年 5月14日 (1944年)

家族
弟=富本 豊前太夫(7代目)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

朝日日本歴史人物事典 「鳥羽屋里長」の解説

鳥羽屋里長(初代)

没年:寛政6.7(1794,95)
生年:元文3(1738)
江戸中期の長唄・豊後系浄瑠璃三味線方の家元。上総(千葉県)生まれ。目が不自由で,里都と称した。宝暦4(1754)年初代鳥羽屋三右衛門の門に入り,三味線を学んだのち,天明1(1781)年里長の名で富本節の三味線を勤めた。3年には常磐津節に移って「関の扉」「戻駕」など名曲を生み出したが,寛政3(1791)年常磐津方と不和を生じ,同流の三味線方を退いた。翌年,5代目都一中のために「傾城浅間岳」を作り,中村座に出勤したものの不評で,秋にはまた富本の三味線方に戻っている。6年以降の行動は不明。なお,里長の名前は現在まで7代を数える。また彼の門から「故沢」「三保崎」「富本」などの姓を持つ富本節の三味線方が輩出した。

(根岸正海)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鳥羽屋里長」の意味・わかりやすい解説

鳥羽屋里長(1世)
とばやりちょう[いっせい]

[生]元文3(1738).上総
[没]寛永6(1794)/寛永7(1795)
常磐津節富本節の三味線方。別称里の都 (さとのいち) 。鳥羽屋三右衛門の門弟。目が不自由だった。天明1 (1781) 年富本に属し,同3年2世岸沢古式部の病気代役に招かれて,一門を率いて常磐津に転向。『関の扉 (と) 』『戻駕 (もどりかご) 』『古山姥 (ふるやまんば) 』『子宝三番叟』『夕霧』などの名曲を作曲。寛政3 (91) 年常磐津と不和を生じ,富本に再転向。

鳥羽屋里長(3世)
とばやりちょう[さんせい]

常磐津節富本節清元節の三味線方。常磐津節三味線方岸沢八五郎の門弟。初名古市。文政9 (1826) 年2世八五郎襲名。天保 10 (39) 年,師とともに佐々木に改姓。同 14年清元に転じ清元八五郎となり,弘化3 (46) 年不和のため富本に転じ,里長の名を復活して3世となった。富本『六玉川』『恵方万歳』などを作曲。

鳥羽屋里長(5世)
とばやりちょう[ごせい]

[生]1883
[没]1944
常磐津節富本節清元節長唄の三味線方。本名榎本欽太郎。7世富本豊前太夫の兄。里長の名で長唄の三味線を弾き,一時期六字南無右衛門と名のったことがある。のち鳥羽屋三十郎とも称した。

鳥羽屋里長(2世)
とばやりちょう[にせい]

常磐津節富本節の三味線方。1世鳥羽屋里長の高弟。目が不自由だった。初名里桂。師とともに富本から常磐津に転じ,師の富本復帰の際は常磐津に残り,故沢と改姓。寛政7 (1795) 年鳥羽屋姓に復し,里慶と称し,翌年里長襲名。同 10年再び富本に転じた。富本『山姥』『忠信』は彼の作曲といわれる。

鳥羽屋里長(6世)
とばやりちょう[ろくせい]

[生]1911.3.25.
常磐津節富本節清元節長唄の三味線方。5世鳥羽屋里長の妻。本名榎本操。 1930年6世を襲名。のち里叟と改めた。

鳥羽屋里長(7世)
とばやりちょう[ななせい]

[生]1936.2.4.
長唄の唄方。本名川原寿夫。2世芳村五郎治の子。7世芳村伊十郎,3世杵屋栄蔵,山田抄太郎らに師事,長唄の唄方として芳村伊千十郎を名のり,1974年7世を襲名した。鳥羽屋里長社中を率いる。

鳥羽屋里長(4世)
とばやりちょう[よんせい]

「清元斎兵衛(4世)」のページをご覧ください。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「鳥羽屋里長」の解説

鳥羽屋里長(初代) とばや-りちょう

1738-1794/95 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
元文3年生まれ。盲人で里都(さとのいち)を名のる。初代鳥羽屋三右衛門の門人。天明3年富本から常磐津(ときわず)にうつり,初代常磐津兼太夫(2代常磐津文字太夫)の立三味線をつとめ,「関の扉(と)」「戻駕(もどりかご)」などを作曲。寛政3年常磐津をはなれ,翌年富本にもどった。寛政6/7年死去。57/58歳。上総(かずさ)(千葉県)出身。

鳥羽屋里長(3代) とばや-りちょう

?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
常磐津(ときわず)三味線方の初代岸沢八五郎(2代佐々木市蔵)の門弟。初名は古市。文政9年(1826)2代八五郎をつぐ。天保(てんぽう)10年佐々木に改姓。14年清元にうつり清元八五郎として立三味線をつとめる。弘化(こうか)3年家元との不和から富本にはいり3代を襲名。作品に「六玉(むたま)川」など。

鳥羽屋里長(2代) とばや-りちょう

?-? 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
天明3年(1783)師の初代鳥羽屋里長にしたがい富本から常磐津(ときわず)にうつる。寛政3年師の常磐津離脱後も故沢(ふるさわ)と改姓してとどまり,立三味線にすすむ。7年鳥羽屋里慶を名のり,8年2代を襲名。のち富本にもどるが,文政3年(1820)冬以降の消息は不明。初名は里桂。

鳥羽屋里長(7代) とばや-りちょう

1936- 昭和後期-平成時代の長唄唄方。
昭和11年2月4日生まれ。2代芳村五郎治の長男。7代芳村伊十郎,3代杵屋(きねや)栄蔵,杵屋栄二,山田抄太郎にまなぶ。2代芳村伊千十郎(いちじゅうろう)をへて昭和49年7代を襲名。61年から里長黒みす塾を主宰。平成14年歌舞伎音楽長唄で人間国宝。東京出身。慶大卒。本名は川原寿夫。

鳥羽屋里長(4代) とばや-りちょう

清元斎兵衛(きよもと-さいべえ)(4代)

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367日誕生日大事典 「鳥羽屋里長」の解説

鳥羽屋 里長(7代目) (とばや りちょう)

生年月日:1936年2月4日
昭和時代;平成時代の長唄豊後節三味線方

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の鳥羽屋里長の言及

【関の扉】より

…宝田寿来作詞。初世鳥羽屋里長,2世岸沢式佐作曲。2世西川扇蔵振付。…

【忠信】より

…作詞2世瀬川如皐(じよこう)。作曲初世鳥羽屋里長(とばやりちよう)。《義経千本桜》の四段目の道行《道行初音の旅》を江戸浄瑠璃にうつした数ある作品の一。…

【戻駕】より

…作詞初世桜田治助。作曲初世鳥羽屋里長。振付2世西川扇蔵ほか。…

【山姥】より

…この趣向が歌舞伎に入ったのは29年(享保14)《長生殿白髪金時》が初めで,所作事では62年(宝暦12)の富本《織殿軒漏月(おりどののきにもるつき)》が古い。現行の山姥物の様式が決定したのは,85年(天明5)初世瀬川如皐作詞,初世鳥羽屋里長作曲の常磐津《四天王大江山入》(古山姥)である。現在多く上演されるのは,俗に〈新山姥〉といわれる常磐津《薪荷雪間(たきぎおうゆきま)の市川》で,三升屋二三治(みますやにそうじ)作詞,5世岸沢式佐作曲,8世市川団十郎の山姥,4世坂東彦三郎の山樵,市川小団次の怪童丸により,1848年(嘉永1)江戸河原崎座初演。…

【六玉川】より

…箏曲の組歌は宝暦(1751‐64)ころ三橋(みつはし)検校の作曲。富本は本名題を《草枕露の玉歌和(たまがわ)》,1846年(弘化3)3世鳥羽屋里長(とばやりちよう)の作品が現在も残る。清元は富本からの移曲。…

【お三輪】より

…富本《道行恋苧環》は1815年(文化12)9月江戸中村座初演。作曲鳥羽屋里長。常磐津《願糸縁苧環(ねがいのいとえにしのおだまき)》は33年(天保4)7月江戸河原崎座初演。…

【常磐津節】より

…ただし後者は1代で消滅,前者は3代限りで初世常磐津兼太夫のとき常磐津に再統一された。 2世文字太夫(初世兼太夫)は造酒太夫,2世兼太夫,三味線初世鳥羽屋里長(りちよう),2世岸沢式佐という陣容で活躍するが,1791年(寛政3)に初世鳥羽屋里長が,99年には2世里長が富本へ走った。さらに同年,実力第一人者であった2世兼太夫が,常磐津一門の内政的な面を当時担当していた,太夫として実力のない常磐津芳太夫の家元第一主義のために破門され,吾妻国太夫と名のり独立するなどの紛争も起こった。…

※「鳥羽屋里長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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