名見崎徳治(読み)なみざきとくじ

改訂新版 世界大百科事典 「名見崎徳治」の意味・わかりやすい解説

名見崎徳治 (なみざきとくじ)

富本節の三味線方,作曲家。7世まであるが初世,3世,7世が有名。(1)初世(?-1810(文化7)) 前名西川徳治。1772年(安永1)から富本豊志太夫(2世富本豊前太夫)の立三味線。94年(寛政6)まで活躍。作曲作品と推定されるのは《相撲》《鴛鴦(おしどり)》《鞍馬獅子》《其俤浅間嶽(そのおもかげあさまがだけ)》《虫売》《身替りお俊》など。富本節の完成に功績があった。(2)2世 初世の子。生没年不詳。(3)3世(1787-1841・天明7-天保12) 2世宮崎忠五郎から1826年(文政9)3世をつぐ。41年(天保12)門弟に4世を譲り名見崎得寿斎となる。吉原土手下に住んだので,〈土手下の徳治〉といわれた。作曲作品に《乙姫》《お三輪道行》など。(4)4世 3世の弟子。生没年不詳。(5)5世 生没年不詳。5世常磐津兼太夫の子。本名小沢庄三郎。1859年(安政6)5世をつぐ。67年(慶応3)引退して2世得寿斎となる。袋物屋の主人となったが,頼まれて再出馬している。(6)6世(1833-77・天保4-明治10) 富本勝蔵,鳥羽屋里桂,4世名見崎八五郎をへて6世をついだが,病身であまり活躍しなかった。作曲作品に《家桜三番(いえざくらさんばん)》など。(7)7世(1845-1917・弘化2-大正6) 本名吉野万太郎。7世をついだが,6世の遺族から苦情が出て3世得寿斎となる。家元派と衝突,1900年名見崎派を樹立,富本節の衰運挽回に努めたが,退勢をどうすることもできなかった。
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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「名見崎徳治」の解説

名見崎 徳治(7代目)
ナミザキ トクジ


職業
富本節三味線

本名
吉野 万太郎

別名
別名=名見崎 得寿斎(ナミザキ トクジュサイ)

生年月日
弘化2年

経歴
富本節三味線方。品太夫の門弟で初名は徳三郎、次いで4代目富本豊前太夫の門弟となって友治と改名。さらに7代目徳治を襲名したが、6代目遺族から苦情が出て3代目得寿斎と改めた。4代豊前死後、富本節衰退挽回に努めたが、家元派と衝突、明治33年5月東京府の許可を得て名見崎派を樹立。東京音楽学校に邦楽調査課が設けられて嘱託となった。その演奏は五線譜に採譜されている。

没年月日
大正6年 7月31日 (1917年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「名見崎徳治」の解説

名見崎 徳治(7代目)
ナミザキ トクジ

江戸時代末期〜大正期の富本節三味線方



生年
弘化2年(1845年)

没年
大正6(1917)年7月31日

本名
吉野 万太郎

別名
別名=名見崎 得寿斎(ナミザキ トクジュサイ)

経歴
富本節三味線方。品太夫の門弟で初名は徳三郎、次いで4代目富本豊前太夫の門弟となって友治と改名。さらに7代目徳治を襲名したが、6代目遺族から苦情が出て3代目得寿斎と改めた。4代豊前死後、富本節衰退挽回に努めたが、家元派と衝突、明治33年5月東京府の許可を得て名見崎派を樹立。東京音楽学校に邦楽調査課が設けられて嘱託となった。その演奏は五線譜に採譜されている。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「名見崎徳治」の解説

名見崎徳治(初代)

没年:文化7.7.12(1810.8.11)
生年:生年不詳
江戸中期の富本節の三味線方。2代目富本豊前太夫が,安永1(1772)年11月中村座に出勤したとき以来,寛政6(1794)年まで,富本節の立三味線を勤めた。当時,富本の三味線方には,常磐津節から移った佐々木市四郎,初代鳥羽屋里長ら名手もいたが,初代徳治の劇場出演記録は圧倒的に多く,彼らをもしのぐ名手であったことがうかがわれる。「相撲・鴛鴦」「鞍馬獅子」「浅間」「身替りお俊」など,富本節の代表曲はいずれも,2代目豊前太夫と初代徳治が太夫と三味線のコンビを組んだ時代に生まれている。2代目は初代の子。

(根岸正海)


名見崎徳治(3代)

没年:天保12.10.26(1841.12.8)
生年:天明7(1787)
江戸後期の富本節の三味線方。初名2代目宮崎忠五郎。文化12(1815)年冬の中村座が芝居初出演。文政9(1826)年冬,3代目徳治を襲名。3代目富本豊前太夫と共に「乙姫」「お三輪道行」などを世に出した。天保12(1841)年5月,門弟富本豊柳に4代目を譲り,得寿斎と改名。

(根岸正海)


名見崎徳治(7代)

没年:大正6.7.31(1917)
生年:弘化2(1845)
幕末から大正にかけての富本節の三味線方。本名吉野万太郎。初名徳三郎。友治を経て7代目徳治を襲名したが,6代目徳治の遺族から苦情が出て3代目得寿斎と改名。富本節の衰運挽回に努めたが,家元派と衝突したため,明治33(1900)年5月,東京府の許可で名見崎派を興した。

(根岸正海)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「名見崎徳治」の解説

名見崎徳治(5代) なみざき-とくじ

?-? 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
5代常磐津兼太夫(ときわず-かねたゆう)の子。富本節。安政6年(1859)5代を襲名。慶応3年4代名見崎八五郎に6代をゆずって引退し,2代得寿斎となったが,6代が病身のため再出演。のち,女役者の妻と旅興行に出,相模(さがみ)(神奈川県)厚木で客死。本名は小沢庄三郎。前名は富本兼蔵。

名見崎徳治(7代) なみざき-とくじ

1845-1917 明治-大正時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
弘化(こうか)2年生まれ。富本節。7代を襲名し,のち3代得寿斎となって富本節の衰運挽回をはかる。家元派と衝突して明治33年名見崎派をたてた。東京音楽学校(現東京芸大)嘱託となり,演奏が五線譜に採譜された。大正6年7月31日死去。73歳。本名は吉野万太郎。

名見崎徳治(3代) なみざき-とくじ

1787-1841 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
天明7年生まれ。富本節。文化12年江戸中村座で初舞台。文政9年3代を襲名。天保(てんぽう)12年門弟富本豊柳に4代をゆずって得寿斎と改名した。江戸吉原の土手下にすみ「土手下の徳治」といわれた。天保12年10月26日死去。55歳。初名は宮崎忠五郎(2代)。

名見崎徳治(6代) なみざき-とくじ

1833-1877 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
天保(てんぽう)4年生まれ。富本節。安政の初めごろから出演し,慶応3年6代を襲名。技芸にすぐれたが,病身のためふるわなかった。明治10年4月19日死去。45歳。初名は富本勝蔵。前名は鳥羽屋里桂,名見崎八五郎(4代)。

名見崎徳治(初代) なみざき-とくじ

?-1810 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
富本節。安永元年はじめて江戸中村座で富本豊志太夫(のちの2代富本豊前(ぶぜん)太夫)の立三味線をひく。寛政6年ごろまで活躍した。文化7年7月12日死去。前名は西川徳治。作品に「鞍馬獅子」「お夏狂乱」など。

名見崎徳治(4代) なみざき-とくじ

?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
富本節。天保(てんぽう)12年(1841)4代を襲名。すぐれた技をもちながら,素行があらたまらず名をとりあげられ,富本豊柳の名にもどった。初名は富本豊志蔵。前名は富本豊柳,名見崎総治。

名見崎徳治(2代) なみざき-とくじ

?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)三味線方。
初代名見崎徳治の子。富本節。寛政8年(1796)江戸桐座で初舞台。10年2代を襲名。文化8年(1811)中村座に出演したが,以後の消息は不明。初名は名見崎安治。

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世界大百科事典(旧版)内の名見崎徳治の言及

【長作】より

…1805年(文化2)江戸中村座で3世坂東三津五郎,5世岩井半四郎らにより初演。作詞初世桜田治助,作曲名見崎喜惣治(初世名見崎徳治),振付初世藤間勘十郎。義太夫の《新薄雪物語》を増補改作した《練供養妹背縁日》の道行で,薗部左衛門を慕って死んだお美津の霊が村娘およしに乗り移って,左衛門と薄雪姫との道行をじゃまする。…

【身替りお俊】より

…作詞初世桜田治助。作曲名見崎徳治(得寿斎)。1783年(天明3)江戸中村座正月狂言《江戸花三升曾我(えどのはなみますそが)》の3月から出た二番目浄瑠璃。…

【三つ面子守】より

…1829年(文政12)9月,江戸河原崎座初演。作詞津打治兵衛,作曲名見崎徳治。振付4世西川扇蔵。…

※「名見崎徳治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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