鷲巣村(読み)わしのすむら

日本歴史地名大系 「鷲巣村」の解説

鷲巣村
わしのすむら

[現在地名]養老町鷲巣

小倉おぐら村の北、養老山地から流出するたき谷が形づくる扇状地平地に移る地にある。津屋つや川が南流し、集落はその右岸にある。西は白石しらいし村。昔里人が白山権現の示現により大木の上にあった鷲の巣の中から一二個の卵を得たが、それが金銀宝珠に変じたので里人はその地に白山権現を勧請、山中に養老寺を建立したといい、地名はこの里伝に由来するという(新撰美濃志)。なお里民は孝子源丞内の子孫とも伝える。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一〇月二九日条にみえる平三真遠は鷲栖源光と号し、当地の人という。「平治物語」には「鷲の栖の玄光」とあり、平治の乱で源義朝が青墓あおはか(現大垣市)から尾張国知多ちた野間内海のまうつみ(現愛知県知多郡南知多町など)へ逃れる時、源光(玄光)が柴船に乗せて送っている。

鷲巣村
わしのすむら

[現在地名]杉戸町鷲巣

宮前みやまえ村の南東、江戸川右岸に立地。元禄郷帳に村名がみえ、高四四一石余。幕府領として幕末に至ったものと思われる。文化二年(一八〇五)の村明細帳(大鷹家文書)によれば高四四二石余・六九町二反余で、すべて畑、取永は五七貫九八七文余。上畑八町四反余(石盛一〇、以下二ツ下がり)・中畑一二町六反余・下畑一九町六反余・下々畑一八町五反余、屋敷一町九反余(石盛一〇)、新上畑一反余(石盛九、以下二ツ下がり)・新中畑七反余・新下畑三町二反余・新下々畑一町三反余、新屋敷九畝(石盛九)余。

鷲巣村
わしのすむら

[現在地名]茂原市鷲巣・緑町みどりちよう

下茂原村の西に位置する。村内を東西に茂原町から長南ちようなん宿(現長南町)に至る道が通り、南部を一宮いちのみや川が流れる。鷲栖とも記される。「上総国町村誌」に鷲巣について「年月不詳鷲山寺鐘銘二ノ宮荘ニ作ル」とみえる。暦応二年(一三三九)一一月二六日の日忍付属状(中山法華経寺文書)に、武州池上いけがみ(現東京都大田区)で荼毘に付された日蓮の舎利の一部が和泉公日法によって「上総国鷲栖法花道場」に奉納されたという記述があり、法花道場とは地内にある鷲山じゆせん寺のことである。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に鷲巣村とみえ、高二六二石余。

鷲巣村
わしのすむら

[現在地名]岩舟町鷲巣

岩舟山の北東麓に位置し、東は白岩しらいわ(現大平町)五十畑いかばた村・中島なかのしま村、南は駒場こまば村。慶安郷帳に鷲之巣村とみえ、田六五石余・畑四三石余・山一三石余。輪王寺本は記載を欠く。江戸時代を通して下総古河藩領。天保(一八三〇―四四)頃の古河藩領村明細帳(茨城県潮田文書)によれば高一八六石余、うち新田三六石余、反別田一五町七反余・畑一八町九反余、取米五三石余・永一四貫余、小物成三貫余、夫永一貫余、大豆九斗余、家数三〇、男六九・女六七、馬一三。

鷲巣村
わしのすむら

明治六年(一八七三)から同一二年までの村。鷲ノ巣とも記す。安政年間(一八五四―六〇)以降上湯川かみゆのかわ村で田畑が開拓され、慶応四年(一八六八)農夫惣代頭取が他の二ヵ所の御手作場とともに一村立になる事を願出、許されて鷲巣郷と唱えた(箱館蝦夷地在勤中諸用留)。明治二年亀田かめだ郡に所属。同四年の戸口は一〇軒・四八人。畑八町三反余、馬七三疋、秣一一町。

鷲巣村
わしのすむら

[現在地名]二宮町鷲巣

大道泉だいどういずみ村の南、鬼怒川左岸にあり、東は太田おおた村。鷲之巣とも記した。天正一四年(一五八六)三月二八日の結城晴朝寄進(称名寺文書)に「長沼郷わしのす」とみえ、多賀谷将監の給分である当地のうち「鷲西」にある三貫文の地と屋敷を買った太田式部少輔は同所を下総結城称名しようみよう寺へ寄進、晴朝はこれを安堵している。

鷲巣村
じゆすむら

[現在地名]阿南町富草とみくさ 鷲巣

遠州往還沿いに位置する。北は粟野あわの村、東は浅野あさの村、南・西は門原もんばら村に接する。

天正一六年(一五八八)毛利領、文禄二年(一五九三)京極領、慶長五年(一六〇〇)小笠原領、同一七年脇坂領、天和元年(一六八一)より美濃高須藩松平氏の飛領地となり、明治に至る(長野県町村誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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