日本歴史地名大系 「鹿児島城跡」の解説
鹿児島城跡
かごしまじようあと
〔築城の経緯〕
上井経兼日記(玉里文庫)によると、慶長六年一月一七日に家久が「上之山」に出て侍屋敷を見学したとあり、翌一八日、上之山の普請が始まったと伝えている。見聞秘記(同文庫)には慶長七年のこととして「当御屋敷、縄張」とある。「三国名勝図会」は島津家久が明人の黄(江夏)友賢に城地を占わせたところ、屋形を巽位に構えることとなったとし、「島津国史」は同年家久が上山城(鹿児島城)を築いたとする。同五年の関ヶ原合戦で島津義弘が属した西軍が敗れたため、翌六年以降家久は義弘の意向を受けて徳川家康の攻撃に備えて肥後境・日向境を固め、そこから鹿児島の本拠である内城(現大竜町)までの主要な城を補強するなど防備を固めた。そのなかで同年当城の築城に着手した。翌七年築城を検分した義弘は上山城は城下が海に近すぎ、家臣の屋敷普請も経費がかかりすぎるとし、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報