麻生郷(読み)あそうごう

日本歴史地名大系 「麻生郷」の解説

麻生郷
あそうごう

和名抄」の和泉郡木島きのしま郷内に鎌倉末期頃に成立した郷で、貝塚久保くぼ半田はんだ麻生中あそなか鳥羽とば新井にいなどを中心とし、それ以北大阪湾に面した海岸までの地域をよんだらしい。半田には熊野九十九王子の一である麻生河あそうがわ(浅宇河)王子があった。嘉禄三年(一二二七)一〇月日付の和泉国司庁宣案(井手家文書)に「木島郷麻生地頭」とみえる。永仁六年(一二九八)には、当地を本貫としたとみられる麻生五郎入道西入と弟信家が、御家人と号して近木こぎ庄に乱入し年貢押領したとして金剛峯寺衆徒から六波羅探題に提訴されている(同年九月三日「六波羅御教書案」高野山文書)。この麻生氏一族が和泉御家人であった確証はないが、豪族として台頭して悪党活動を繰広げたものと思われる。

建武元年(一三三四)のものと推定される高野山丹生社神主竈戸恒信言上状(高野山文書)によると、元弘元年(一三三一)一一月一六日、高野山居住の沙弥道阿が麻生郷を後醍醐天皇の尊崇する高野山丹生明神社に寄進している。


麻生郷
あそうごう

「和名抄」下毛郡七郷の一。諸本とも訓を欠く。「太宰管内志」は近世の宇佐郡麻生村(現宇佐市)を遺名とみて、「下毛郡麻生とあるは、宇佐郡の郷名の混入したるなるべし。今も宇佐郡に、上下ノ麻生村あり、凡て四村なり、今は高家郷ノ内にいれり」と記し、「下毛郡誌」は下毛郡上津こうづ(現本耶馬渓町)が宇佐郡麻生に接近していることから、明治二二年(一八八九)成立の下毛郡上津・東谷ひがしたに・西谷(現本耶馬渓町)の各村と麻生村を合せた地域が郷域ではなかったかとする。


麻生郷
あそうごう

古代麻生郷(和名抄)の系譜を引く中世郷。文保二年(一三一八)五月日の宇佐宮神官実世申状(永弘文書)に「下毛郡麻生郷藍原屋敷弐ケ所」とあり、野仲道雄や妙法寺円証らの押領をうけていた。建武元年(一三三四)二月九日の沙弥円証置文(湯屋文書)にも「下毛郡麻生郷内御神領弥勒寺御領内野仲郷(中略)於御神領者、藍原并弥勒寺御領」とみえ、次男実平が庶子の協力をえて社役を勤むべきことが定められており、現相原あいはら付近に所在したことは確実である。


麻生郷
あそうごう

「和名抄」に「麻生」と記され、訓を欠く。「常陸国風土記」行方郡の項に「麻生の里あり。古昔、麻、潴水の涯に生へりき。囲み、大きなる竹の如く、長さ、一丈に余りき。里を周りて山あり。椎・栗・槻・櫟生ひ、猪・猴栖住めり。其の野、勒馬を出だす。飛鳥の浄御原の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世、同じき郡の大生の里の建部の袁許呂命、此の野の馬を得て、朝廷に献つりき。


麻生郷
あそうごう

現金山町東部飛騨川流域に比定される。仁安元年(一一六六)頃の飛騨国雑物進未注進状(宮内庁書陵部蔵)に「麻生郷」とみえ、田一四町二段一六歩・畠一四町二段二四六歩があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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