黒井村(読み)くろいむら

日本歴史地名大系 「黒井村」の解説

黒井村
くろいむら

[現在地名]豊浦町大字黒井

豊浦山地の南端にあるおにじよう山の西北麓に位置し、杜屋もりや川流域の小沖積平野を中心に北西ひびき灘に面する。村の北から南に赤間関あかまがせき街道(北浦道筋)が通じ、北は吉永よしなが村、南は吉見上よしみかみ(現下関市)、西は厚母あつも室津下むろつしもの両村に接する。長府藩領で西豊浦郡中支配に属した。

地名は至徳二年(一三八五)の安養寺文書に「富安名黒井郷中幡村」とみえ、さらに室津上むろつかみの観音院所蔵の鰐口銘に「長州黒井稲達西福寺鰐口、康暦元年十一月日 願主敬白」、吉永八幡宮所蔵の正長九年(永享八年・一四三六)の鰐口には「黒井郷弥勒寺」、川棚の妙青かわたなのみようせい寺所蔵の鰐口銘には「長門国豊西郡黒井内中畑観音寺鰐口 永享六歳甲寅七月十八日 願主」とあり、付近一帯が黒井郷とよばれていたことが知られる。写ではあるが天文一四年(一五四五)一一月二〇日付の厚母七郎兵衛家文書(「閥閲録」所収)に「長門国豊西郡黒井・厚母・室津三ケ郷、国衙内田地壱町五段小、畠地六町七段半地事、当知行之由任申請之旨、毛利治部丞元種可領知之状如件」とあり、天正二年(一五七四)九月三〇日付の三井熊松丸宛の文書(「閥閲録」所収)には「黒井郷」とある。

黒井村
くろいむら

[現在地名]上越市黒井

近世には黒江とも書いた。八千浦やちほ地区西端の海浜部に位置。北国街道(奥州街道)が通り、同街道の伝馬宿春日かすが新田からきた北国街道は当地を経て潟町かたまち宿(現中頸城郡大潟町)柿崎かきざき宿(現同郡柿崎町)へ海岸部を東上する。当地から柿崎までの海浜をさい(宰浜・才浜)とよび、「頸城郡誌稿」に「此黒井浜ヨリ柿崎浜迄ハ、往古ハ荒ビタル砂原ニテアリケルニ、中古年ヲ追フテ人家増加セリ。サレドナホ、塩屋漁家ノミニテ砂原ニ散在家居シテ有ケルニ、文政年間砂原ニ松樹植付ノ業功ヲ遂ゲル故、追々村立繁リ、田業漁業モ開ケ、又他国出稼ハ皆此浜地人民ノ専業トナリケルヨリ村立追々富有トナリ、当時ニテハ此駅ヨリ柿崎駅迄ノ間人家櫛比セントスルノ昌運ニ向タリ」とある。長享二年(一四八八)一〇月一一日、柿崎を立って北国街道を南下した万里集九は「梅花無尽蔵」の同日条に「出柿崎大半浜路、黒井・中浜之間有河、西岸挿柱張大綱、渡者皆転手而遣舟号曰転舟くりふね」と記している。この河は保倉ほくら川であろう。

文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には「くろ江川」(保倉川)の右岸近くに集落が描かれ、「御料所関惣兵衛分黒江村」と記される。本納二八石一斗四升・縄高一三石八斗五升七合・家二四軒・八四人。

黒井村
くろいむら

[現在地名]春日町黒井

村中を黒井川が東流し、北はしろ(三五六・八メートル)、東は七日市なぬかいち村。丹後への道が通る。東から横町よこちよう小山こやま本町ほんまち新町しんまちなかまち東町ひがしちよう(現中ノ町)すぎしたと称する。枝村にしば村・地下じげ村がある(天保郷帳)。もとは両村とともに黒井村と称した。康応二年(一三九〇)二月二二日の春日部庄玉泉坊引檀那願文(熊野本宮大社文書)によれば、春日部かすかべ庄内の庄官や住人が紀伊熊野本宮に願文を捧げており、そのなかに「くろいさいちやう」(黒井在庁)と「くろいしやうし」(黒井庄司)の名がみえる。当村の地頭職は応永一六年(一四〇九)赤松満則に安堵され、正長元年(一四二八)には子の赤松貞村に安堵されている(応永一六年九月四日「足利義持御判御教書」・正長元年七月七日「室町将軍家下知状」赤松春日部文書、正長元年七月一六日「管領畠山満家施行状」岡山大学博物館蔵赤松春日部文書)

黒井村
くろいむら

[現在地名]千代田町大字黒井字下黒井しもくろい

犬童いんどう川の東方にあり、クリークが点在する。北は上姉川かみあねがわ(現神埼町)である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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