黒山村(読み)くろやまむら

日本歴史地名大系 「黒山村」の解説

黒山村
くろやまむら

[現在地名]岡垣町まつだい一―五丁目・黒山・旭台あさひだい一―四丁目

矢矧やはぎ川を挟んで糠塚ぬかづか村の西、同川左岸の平野(岡垣低地)および低丘陵地に位置し、北は海(響灘)に面する。南は野間のま村・山田やまだ村。村の北部はおか松原(三里松原)のうちで、地内の半ばは松林であった(地理全誌)。集落は本村のほか蒔崎まいさき(続風土記拾遺)、「地理全誌」ではひがし宇土うともみえる。なお東部の蒔崎は枝郷蒔崎村として扱われる場合もあった(元禄国絵図・天保郷帳など)。明徳五年(一三九四)四月二八日の旧千手寺の鐘(現広島県廿日市市教龍寺蔵)の銘に「大日本国筑前州遠賀庄黒山千手寺」とある。


黒山村
くろやまむら

[現在地名]美原町黒山

丹南郡に属し、東は中高野街道を隔てて多治井たじい村・小平尾こびらお村、南は泉州堺と大和を結ぶ道を隔てて阿弥あみ村。南北に長い長方形の村で、緩やかな南高北低の中位段丘上に位置する。集落は古くより上下に分かれている。古代丹比たじひ郡黒山郷(和名抄)の遺称地。「日本書紀」大化五年(六四九)三月二五日条に、謀反の疑いを受け大和へ逃れた右大臣蘇我倉山田石川麻呂に対する追討軍派遣記事があり、黒山の地名が見いだせる。大和への往還路が当地を通っていたことが推定される。この黒山を当地北部の段丘上の浅い谷に挟まれた台地にある黒姫山くろひめやま古墳にあてる説があり、黒山の地名は平野の中に緑が黒々と繁茂する同墳に由来するのではないかという。


黒山村
くろやまむら

[現在地名]越生町黒山

大満だいま村の南西、越辺おつぺ川源流域にある山間村。地内の黒山三滝一帯は中世には紀州熊野三山を模した関東の熊野霊場とされ、熊野神社を拠点にした修験の山本やまもと(現毛呂山町)があった。黒山三滝に応永二〇年(一四一三)一〇月年紀と「山本開山 権大僧都 栄円和尚」と刻された宝篋印塔、同二一年五月の年紀と「法勝禅門 寿塔」と刻された宝篋印塔が残る。田園簿に村名がみえ、田高二一石余・畑高一〇六石余で、幕府領、ほかに紙舟役永一貫七七五文を上納。


黒山村
くろやまむら

[現在地名]西浅井町黒山

しよう村の南、大浦おおうら谷西縁の支谷の山地に立地。西部山地に発する諸子もろこ川が集落南を東流し、東境で大浦川に合流。西は万字まんじ(万路・饅頭)峠越で小荒路こあらじ(現高島郡マキノ町)と結ぶ(現廃道)。峠名は空海が峠の大石に卍を書残した故事によるという(輿地志略)。「伊香郡志」によれば古検は、田一二町六反余・高一五九石余、畑一三町九反余・五二石余、屋敷二反余・二石余。寛永石高帳では高二一三石余、幕府領。元禄郷帳では甲斐甲府藩領。文政石高帳では三河吉田藩領。稲荷神社は、天文元年(一五三二)悪疫が流行した時京都伏見稲荷神社を勧請、当地の産土神とした。のち字臼谷うすたに権現ごんげん森に祀られていた小祠を合祀。


黒山村
くろやまむら

[現在地名]賀陽町黒山

吉川よしかわ村の南にあり、足守あしもり川の最上流部に位置する山村。もと賀陽かよう間倉まくら(現岡山市)に属していたが、のち上房郡に組入れられたといわれ(上房郡誌)、慶長六年(一六〇一)木下家定に与えられた二万五千石のうちに「間倉黒山」二一九石余がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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