黒竜江省(読み)コクリュウコウショウ

デジタル大辞泉 「黒竜江省」の意味・読み・例文・類語

こくりゅうこう‐しょう〔コクリユウカウシヤウ〕【黒竜江省】

黒竜江

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改訂新版 世界大百科事典 「黒竜江省」の意味・わかりやすい解説

黒竜江[省] (こくりゅうこう)
Hēi lóng jiāng shěng

中国東北部の一級行政区。中国の北東端に位置する。省都はハルビン哈爾浜)市。3地区(綏化すいか),松花江,大興安嶺),29市(11地級市,18県級市),49県,1自治県からなる(1995)。面積は45万3000km2,全国総面積の約4.8%にあたる。人口3624万(2000)。北は黒竜江,東はウスリー(烏蘇里)江を境にロシアと国境を接し,西は内モンゴル自治区のフルンブイル(呼倫貝爾)盟と,南は吉林省と境する。中央部は広大な松花江・嫩江(松嫩)平原で,その西,北,東の三面は大興安嶺,小興安嶺ならびに張広才嶺,老爺嶺など長白山地の一部によってとりかこまれ,その外側を黒竜江本流とウスリー江が流れる。黒竜江と松花江,ウスリー江の二大支流の合流する一帯は三江平原と呼ばれる低湿地を構成する。気温は中国で最も低く,特に冬は5~7ヵ月の間0℃以下,北端に近い漠河では1月平均気温は-30.9℃,ハルビンでも-19.4℃であるが,7月の平均気温は北端部以外は20℃をこえ,降水量も夏に集中するので農業(一毛作)は可能である。

 本省では最近2.2万年前に居住していた〈ハルビン人〉の遺跡が発見されているが,古代には粛慎(しゆくしん)が漁猟生活を営んでいた。密生する森林中には野生動物が豊富であり,河川にも川マスをはじめ淡水魚が群をなして遡上してきていた。隋末・唐初靺鞨(まつかつ)諸部族により渤海国が長白山地区からロシアの沿海州,朝鮮北部にかけて建てられたが,渤海は唐の文化を吸収し,農業も手工業もかなりの水準に達した。本省北方の黒竜江以北の地域には黒水靺鞨が住み,ハルビン市から北西方の大興安嶺北部にかけては室韋がいた。遼代には東京,上京の2道,金代には上京路に属したものの,頻発する戦乱のため人口も減少し,本地域は再び荒廃した。元代にも遼陽行中書省に属したが,ほとんど開発の手は入らなかった。明代になってようやくチチハル周辺のウリヤンハイ部族の地に泰寧,朶顔(ドヤン),福余(フユル)の三衛が設置されたが,永楽帝以後,明の支配力は本地域にまで及ばず,女真族の勢力下におかれ,ほとんど人煙を見ない草原と原始林からなる景観にあまり変化はなく,わずかに狩猟民と遊牧部族が活動するだけであった。

 したがって清朝初期には大,小興安嶺の森林河谷地区にはソロン(索倫)族(現在エベンキ(鄂温克)族と改称),オロチョン(鄂倫春)族,ダフール(達呼爾)族が狩猟に従事して,原始的氏族社会を構成し,東部の老爺嶺一帯には山間に散居する虎爾哈,瓦爾喀などの部族が住み,三江平原にはホジェン(赫哲)族が居住して漁労を生業とし,また松嫩平原南部でもモンゴル族の各部族が水草を追って遊牧を営んでいた程度であった。わずかに松花江とその支流沿岸の滬倫諸部族が農耕を行っていたが,それも零細な規模で,粗放な農耕を行っていたにすぎない。

 当時,瀋陽とチチハル(斉斉哈爾)の間の幹線道路沿線でも,中間の千数百里の間は居民がなく,旅行者は道づれもなく,野宿せねばならなかった。だが黒竜江は辺境防備の要地であり,帝制ロシアの東進にともない,清朝も1654年(順治11)昂幇章京を寧古塔に置き(のち寧古塔等処将軍と改称),辺境防備と貢物の収受に当たらせた。1683年(康熙22)中露間に戦争状態を生じると,寧古塔等処将軍は吉林に移駐し,現在のアイホイ(愛輝)に黒竜江城を建設して前哨基地とし,また現在のチチハル,嫩江,扶余,依蘭に官治を設け,これらを辺外七鎮と総称した。同時に多くの駅站(えきたん)を設け,また駐屯軍への食糧供給問題を解決するため,軍隊による屯田を奨励した。またこれらの地に流刑となった漢人によって農地開拓も行われた。しかしロシアとの緊張関係がゆるむと清朝は封禁政策をとり,祖先の土地に漢族の流入することを禁止した。だが,19世紀半ばから外国の脅威の激化,国内の反乱の増加の結果,黒竜江省の兵力を移動させた。このため辺境防備が手うすになり,移民を認め空白地域をうめざるをえなくなった。

 1897年からロシアは東清鉄道の建設にかかったがこれにより労働力の需要が増大し,関内各省から東北に流入する農民は急増した。これにゴールドラッシュが重なって,人口増はいっそう拍車がかけられた。さらに定住農民も増加したので,清朝は関内各省と同じく,府・庁・州・県をおき,1907年(光緒33)に黒竜江巡撫を任命した。省治は竜江県(現在のチチハル)におかれることとなった。辛亥革命後も漢族の入植が続き,牡丹江,綏芬河(すいふんが),穆稜河(ぼくりようが)流域や黒竜江沿岸の開拓が進み,人口も1884年の25万人から1929年には370万人に達したが,三江平原や嫩江下流の沼沢地等には未開拓の荒野が残り,北大荒(北方の広大な荒野)と総称されていた。しかしハルビンやチチハル,牡丹江など主要都市には商工業も発達し,周辺農村も農地化が進み,また鶴崗,穆稜などの炭鉱も開発された。

 1931年満州事変以後,日本の植民地的色彩が濃厚となり,またソ連に対する軍事的な目的から多くの鉄道が建設され,日本人の開拓団が国境に配置された。第2次大戦後,本省はいち早く解放区となり,第3次国内革命戦争にあたっては人民解放軍の総反攻の戦略的拠点となった。解放後ハルビンは本省の行政中心となるとともに,発電用タービンなどの重工業が発展し,またチチハルも輸送用機械等の工業が,牡丹江は製紙を主体として,いずれも近代的工業都市に成長し,大興安嶺北部から小興安嶺にかけては用材,パルプ材の生産が盛んとなり,伊春などに製材業の中心がある。地下資源では鶴崗,双鴨山,鶏西,七台河の炭鉱に加えて,1959年,安達市で大慶油田が発見され,中国最大の油田に成長した。79年,安達市は大慶市と改称された。また三江平原や黒竜江沿岸には多くの国営農場が建設され,朝鮮戦争の復員軍人が多く入植しており,北大荒を北大倉(穀倉)に変えようというスローガンのもとに永久凍土層からなる湿地帯の開発に取り組んでいる。農業経営は機械化が進み,大型コンバインが活躍している。農産物としては食糧作物には,トウモロコシ,アワ,小麦,コーリャン,稲があり,稲は世界でも最も北寄りの黒竜江沿岸でも栽培されている。工業原料作物には大豆,テンサイ,亜麻,ヒマワリがある。山地には落葉松,チョウセンゴヨウなどの針葉樹が繁茂し,蓄積量も豊富で,また毛皮獣やニンジン(朝鮮人参)など漢方薬の材料を産する。

 交通は鉄道網の密度がかなり高く,旧東清鉄道の浜洲(ハルビン~満洲里),浜綏(ハルビン~綏芬河)両線が東西に貫通するほか,哈大線(ハルビン~大連)が南北に走る。解放後に建設された鉄道に,大興安嶺東麓を漠河付近まで北上する富西線(富拉爾基~古蓮),大慶油田と北京を結ぶ鉄道の一部である通譲線(通遼~譲湖路),伊春より北に伸びる南烏線(湯原~烏伊嶺),北安から黒河に通じる北黒線などがある。電力は火力発電を主とするが,鏡泊湖では水力発電も行われる。また黒竜江,松花江は夏は汽船の航行が盛んだが,冬は5~6ヵ月結氷のため通航不能となる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黒竜江省」の意味・わかりやすい解説

黒竜江〔省〕
こくりゅうこう

「ヘイロンチヤン(黒竜江)省」のページをご覧ください。

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