渤海(読み)ボッカイ(英語表記)Bó hǎi

デジタル大辞泉 「渤海」の意味・読み・例文・類語

ぼっ‐かい【渤海】

中国北東部にある海域。山東半島遼東半島に囲まれ、黄海との境に廟島びょうとう群島がある。黄河が注ぐ。ポーハイ
8~10世紀、中国東北地方を中心に、沿海州から朝鮮半島北部にわたり栄えた国。698年、ツングース靺鞨まっかつ族の首長大祚栄が建国。の制度・文物を摂取し、仏教を保護。日本とも国交があったが、926年契丹に滅ぼされた。

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精選版 日本国語大辞典 「渤海」の意味・読み・例文・類語

ぼっかい【渤海】

  1. [ 一 ] 七世紀末から一〇世紀初期まで、中国東北地方の南東部から朝鮮半島北部沿海州を領域とした国(六九八‐九二六)。高句麗系の大祚栄の建国になり、初め震と称したが、七一三年唐から渤海郡王に封ぜられて渤海と改称。五京(ごけい)を置き、都城は長安に模した。日本とも友好関係を結ぶが、九二六年契丹に滅ぼされた。
  2. [ 二 ] 黄海に連なり、遼東、山東両半島に囲まれた内海。奥部は渤海湾、北東部は遼東湾と呼ばれる。黄河、遼河などが流入。遠浅で、沿岸では製塩業や漁業が盛ん。

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改訂新版 世界大百科事典 「渤海」の意味・わかりやすい解説

渤海 (ぼっかい)
Bó hǎi

7世紀末から10世紀初にかけて,現在の中国東北地方,朝鮮咸鏡道およびロシア沿海州にまたがって存在した国家。始祖は大祚栄(だいそえい)。高句麗人とも,その支配下にいた靺鞨(まつかつ)人ともいわれる。住民も主に高句麗人と靺鞨人から成っていた。

高句麗が668年(総章1)に唐に滅ぼされた後,営州(遼寧省朝陽)に移されていた大祚栄を中心とする高句麗人および靺鞨人の一派は,契丹(きつたん)人李尽忠の反乱に乗じて営州を脱出し,現在の吉林省敦化を根拠地に建国した。武周朝の698年(聖暦1)のことである。当初は震国(振国とも書く)と称していたが,713年に大祚栄が唐から渤海郡王という称号を与えられてより,国名も渤海と称するようになった。第2代大武芸(在位720-737)のとき,渤海の北にいた黒水靺鞨と唐との通交を契機に,両者から挟撃されることを恐れた渤海と唐との間で緊張が高まった。このような情勢を背景にして,渤海は日本との連繫を求めるようになる。727年(神亀4)を皮切りに,日本へ往来した使節は34回を数えた。当初は政治的意図からのものであったが,唐との関係が修復されるにつれ,交易が主たる目的になる。渤海からは熊などの毛皮,日本からは絹織物類が主な交易品であった。また,日本にとって渤海は,唐との通交の中継地の役割を果たした。例えば,唐への留学僧が渤海を経由して往来し,安史の乱の情報は渤海を通じてもたらされた。第3代大欽茂(在位738-794)の代になって渤海と唐は和解し,以後両国は概して平穏な関係が続いたようである。大欽茂の治世は,国家としての体制が基本的に整備された時期でもある。官制は唐のそれに倣っている。中央には唐の三省に当たる宣詔省,中台省,政堂省,尚書六部に当たる忠,仁,義,智,礼,信の各部を置く。さらに九寺に当たる宗属寺などの七寺,御史台に当たる中正台があった。武官としては左右の猛賁,熊衛,羆衛,南左右衛,北左右衛を置く。地方行政単位としては,王都を含め要地に五京(上京竜泉府中京顕徳府,東京竜原府,南京南海府,西京鴨淥(緑)府)が置かれたほか,府・州・県の存在が知られている。五京のうち,大部分の期間は上京(現,黒竜江省東京(とうけい)城)が王都とされていた。

 文化の面でも唐文化の移入に努め,支配者層は中国風の教養を身につけていた。日本側の史料には渤海使臣と日本の官人との間に交された漢詩が残っている。仏教の信仰も盛んだったようで,上京址,東京址などから多くの寺院址が発掘されている。ただ,唐の影響を強く受けながらも,その基底には高句麗あるいは靺鞨の伝統を色濃く残していた。例えば,都城プランそのものは唐の長安を模しているが,オンドルを持つ宮殿の構造は高句麗以来のものであった。また,渤海国王より日本の天皇にあてた国書ではみずから高句麗王を称しているように,高句麗を継承する意識が強かった。

 大欽茂以後,第10代大仁秀(在位819-831)が立つや領域をさらに北方にひろげ,渤海は最盛期を迎える。しかし第15代大譔(だいいんせん)(在位907-926)の代に至ると支配者層の間に動揺が見られ,渤海の官人の一部が高麗へ亡命している。このころ,西隣の契丹族が耶律阿保機(やりつあぼき)の下に統一され,遼朝が成立する。渤海の内紛に乗じた遼軍の侵入によって,926年に王都上京が陥落して大譔は捕らえられ,ここに渤海は滅亡した。耶律阿保機は征服地を東丹国とし,長子の耶律倍に治めさせた。しかし遺民の抵抗は激しく,928年(天顕3)には遺民の一部を遼陽(遼寧省瀋陽)に移して東丹国もここに後退させ,旧渤海領の大部分の直接支配を放棄した。その後,旧渤海領では渤海の遺民政権が一時期まで存在した。一方,遼陽の遺民の中には遼朝および次の金朝の治下で官僚として活躍するものもあった。その一部は金朝の宗室と深い関係をもち,金朝への中国風文化の移植に貢献した。ただ,再び統一国家を成しえなかったせいか,渤海人自身の記録がまったく残っておらず,〈海東の盛国〉とうたわれながら,その歴史は不明な点が多い。
執筆者:

渤海の根拠地は,牡丹江上流域を中心としているが,震国建国時の都城は,吉林省敦化県にある敖東(ごうとう)城古城に比定される。この敖東城は,第3代文王大欽茂のとき,国都を上京竜泉府(黒竜江省寧安県,東京城)に移してからは〈旧国〉と呼ばれている。その後,国都は,東京竜原府(吉林省琿春県,半拉(はんら)城址),中京顕徳府(吉林省和竜県,西古城),さらに再び東京竜原府,上京竜泉府などを転々と移動した。

 渤海の建国に参加し,新たに支配階級となった高句麗遺民や靺鞨人の多くは,中国風の教養を身につけていたようであるが,その建国の方針は高句麗の復活にあったらしい。渤海は建国後15代,228年間にわたって存続した。その国家的基盤は第2代,第3代のころに確立し,第10代宣王大仁秀の時期にもっとも繁栄する。《唐書》が〈海東の盛国〉と記したのはこのころの渤海を指している。建国初期において,高句麗末期の政策をそのまま継承しようとした渤海は,主として日本との交流に力を注いだ。その背景には西の唐と,南の新羅の勢力を牽制(けんせい)しようとした外交政策の一面がうかがわれる。ところが第3代の後期から,唐に対しては恭順な態度を示し,外交を盛んに展開するとともに,唐の文化を積極的に受容した。したがって,渤海の文化は高句麗のそれを継承したとはいえ,諸制度は唐にならったもので,あたかも唐制の規模を小さくした感がある。五京,十五府,六十二州が設置され,その下に州県が置かれたが,五京は領土の重要地区の中心に設置されたもので,国都となった中京顕徳府,上京竜泉府,東京竜原府のほか,西京鴨淥府(吉林省集安県)と南京南海府(朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道新昌郡)がある。

 これらのうち特に,国都となった三京の跡には,唐の長安城を模した城郭都市がみられ,その内外に宮殿,寺院,墳墓などの遺跡が残り,各種豊富な出土品をみる。東京竜原府に比定される半拉城址は1924年以後,数回にわたって,また上京竜泉府すなわち東京城址は1933-34年に,ともに日本人によって発掘調査が実施された。また1980年,中京顕徳府のある吉林省和竜県では,大欽茂の第4女貞考公主の壁画墓が発見された。貞考公主墓に描かれた人物像は,唐の永泰公主墓などの壁画人物像と酷似している。一方,渤海前期の都城旧国(敖東城)では南郊の六頂山に墳墓群があり,大欽茂の第2女貞恵公主の墓が含まれている。貞恵公主墓は1949年発見され,全長4.7mの横穴式石室をもつ。同年と59年の調査により石獅,鍍金銅器,玉璧,陶器など多くの出土品をみたが,とりわけ駢麗(べんれい)文を唐代の標準的な楷書体で刻んだ墓碑は貴重である。これによって碑が780年に建てられ,六頂山墓群が渤海前期王族の墓地であり,また敖東城がその都城旧国の所在地であったことが知られる。
執筆者:

高麗の太祖王建は渤海を〈親戚の国〉といい,建国当初に使者を送ってきた契丹に対して,渤海を裏切って滅ぼしたと非難して絶交している。この王建の親近感の基盤には,現実に王族をはじめとする多数の渤海人が亡命してきていることとともに,渤海と同じく高麗もかつての高句麗の継承者をもって任じているという共通の民族感情があったものと思われる。一方,高麗朝に編纂された史書のうち,《三国史記》(1145ころ),《三国遺事》(1285ころ),《帝王韻紀》(1287)などに渤海関係記事がみえる。しかし最も流布した官撰の《三国史記》には,新羅との戦闘記事のほかは記されていない。このことは渤海を朝鮮史上の問題として考えることを希薄にする大きな原因になったものと思われる。

 ついで李朝になると,《高麗史》(1451),《高麗史節要》(1452)などには,多くの渤海人の亡命記事がみえ,また王建の契丹との絶交を義挙と賞賛している。ところが,《東国通鑑》(1484)になると,〈契丹が渤海を裏切って滅亡させたことなど,どうしてわが国と関係があるのか〉といって,王建の行為を非難する意見が示されるにいたった。これは李朝の北進策の後退,現実に旧渤海領の大半が女真など他民族の支配下にあることなどによる渤海への関心の低下を反映しているものと思われるが,以後《東国通鑑》の評価が支配的になっていく。

 さて,17世紀になって実学が勃興,発展し,自国の歴史に対する学問的関心が高まるとともに,渤海についても見直されるようになった。まず朱子学者の許穆(きよぼく)が檀君以降の歴史を書いた《東事》(1673)の中に渤海の歴史を叙述した〈靺鞨列伝〉を収めている。内容には誤りが多いが,まとまった記述としては早い時期のもので注目され,実学発展の上に大きな功績を残した李瀷(りよく)は〈靺鞨列伝〉の補正に努めている(《星湖説(せいこさいせつ)》)。そして朝鮮における歴史書の中の名著といわれる安鼎福の《東史綱目》(1778)にも渤海のことが記されている。しかしその記述は凡例に〈渤海はわが国の歴史に記録すべきではない。しかし高句麗の故地に興った国であるから記述する〉とあるように,つけたりとされているのである。

 こうした《東史綱目》に代表される,渤海史を朝鮮史の従属的な立場におく見方に対し,積極的に自国史上の問題として研究すべきことを主張したのが柳得恭の《渤海考》(1784)である。彼は,〈百済,高句麗が滅んだ後,南に新羅,北に渤海が存在した。そしてこの両国を統一した高麗は南北国史や渤海史を編纂すべきであったのに,それをしなかったため渤海の領土が誰のものであったか不明にしてしまい,結局,渤海の旧領を回復することができなくなってしまった〉と述べ,多くの史料を博捜して《渤海考》を著した。このような柳得恭の,渤海を朝鮮史上の問題として理解すべきであるという主張は,洪奭周(こうせきしゆう)の《渤海世家》,丁若鏞の《疆域考》,韓致奫(かんちえん)の《海東繹史》などの記述に受けつがれていく。そして20世紀前後の近代啓蒙期になると,渤海を高句麗の継承者として新羅などと同列に評価し,自国史に位置づけようとする努力がなされ,今日に至る研究の直接の出発点となっている。現在では,こうした成果をふまえて文献・考古両側面から渤海史の研究が行われ,同時期に並存した新羅・渤海を南北国時代という時代区分を立てて,朝鮮史の体系において論ずべきであるという意見が有力になっている。
執筆者:

建国初期の渤海のおかれた国際環境は,北西の突厥(とつくつ),南の新羅に取り囲まれた厳しいものであった。726年に渤海の最北方に位置していた黒水靺鞨部が,渤海に通告することなく渤海領内を通過して入唐し,さらに唐が黒水靺鞨部の地に黒水州を設置したことに起因して,唐および新羅との抗争にまで発展しそうな様相を呈した。こうした情勢の下で727年新羅を牽制することのできる勢力である日本に使節を派遣して,日本と結ぼうとした。ここに渤海と日本の国交が開始され,以後919年(延喜19)まで続くが,その間渤海からの使節の来日は34回に及び,一方,日本からの遣渤海使派遣は13回で,その多くは渤海の使節を送る使であった。こうした両国の通交の歴史は,大きく2時期に区分できる。第1期(727-811)は,渤海が新羅を牽制することを日本に期待して使節を派遣する一方,日本は新羅を蕃国に位置づけ続けるために,渤海の協力を得ようとする政治的な目的をもった外交であった。特に759年(天平宝字3)に藤原仲麻呂政権によって立案された新羅征討計画は,日本と渤海が連携して征討を実現しようとしたものであり,そのために両国の使節の往来も頻繁であった。しかし藤原仲麻呂政権の衰退にともなって新羅征討計画が消滅し,また大欽茂が762年に唐から渤海国王に冊立されて唐との緊密な関係が維持され,同時に新羅との緊張も緩和されるにしたがって,日本と渤海との関係も変質し始めた。798年(延暦17)には,日本が渤海の来航を6年に1度に制限したが,渤海の強い来航年期短縮要請を受け入れた日本は,799年に無制限な渤海船の来航を許可するほどであった。これは渤海が日本との貿易に積極的であったことを示すものであった。

 811年(弘仁2)に最後の遣渤海使が派遣された後の第2期(814-919)は,まったく渤海からの一方的な使節の派遣となった。彼らは毛皮,人参,蜂蜜などの特産物をもたらし,代りに日本の絁(あしぎぬ),綿,糸などの繊維加工品を獲得するという貿易を目的としたものであった。こうした渤海の貿易中心の来航に対して,日本は824年(天長1)に来航年期を12年に1度と制限したが,渤海は以後も在唐日本人留学僧との連絡を口実に年期に違反して来日することがたびたびであった。また日本側も渤海の使節団のもたらす貿易品をいち早く手に入れようとして,王臣家や国司などが争って来航地に赴き,禁止されていた外国使との私的な貿易を行うほどであった。こうした渤海との積極的な私的貿易活動に抗しきれなくなった日本政府は,872年(貞観14)に平安京内での渤海使節との交易活動を公に許可せざるをえなくなったのであった。また,日本の漢詩集の《文華秀麗集》《経国集》に渤海からの使の作った詩賦がのせられるなど文化的交流も行われた。
遣渤海使
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「渤海」の意味・わかりやすい解説

渤海(国)
ぼっかい

高句麗(こうくり)が唐に滅ぼされた(668)あと、現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州(現沿海地方)、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系の民族国家(698~926)。渤海が高句麗の復興を目ざしたものであることは、自他ともに認めていた。唐からの独立戦争および建国後の中心的役割を果たしたのは靺鞨(まっかつ)人と高句麗人である。初代国王は大祚栄(だいそえい)(在位698~719)。以下最後の第15代の大譔(だいいんせん)(在位907~926)まで大氏の王統が続く。大祚栄は初め震(しん)(振)国王と号したが、唐との関係が改善され、唐から渤海郡王に封ぜられるに及んで(713)、この渤海が国号となった。

 唐が満州ツングース系民族国家の成立を容認せざるをえなかった背景には、北方の強大な遊牧国家たる突厥(とっけつ)の存在がある。唐にとって当面のもっとも手ごわい相手はこの突厥(第二可汗(かがん)国)であり、唐がいかに抜群の生産力と兵力をもつとはいえ、遠く西域(せいいき)にまで手を広げ、その経営、維持に多大の国力を費やしている状況では、突厥との正面衝突はなんとしても避けねばならない一大関心事であった。もし唐が、莫大(ばくだい)な犠牲を払い、やっとの思いで滅ぼした高句麗と同じような国がまたたくまにできたことにどうしてもがまんがならず、ここに総力をあげて兵馬を動員すれば、突厥が奚(けい)、契丹(きったん)、室韋(しつい)諸部族まで取り込んで渤海の側につくこと、そうなれば、唐と突厥の勢力が手薄となった西域を目がけて吐蕃(とばん)が進出してくることは、火をみるより明らかであった。初め弱かった渤海国の基盤はこのような国際情勢に助けられてしだいに強固となり、第2代大武芸(在位719~737)のときに至ってようやく「仁安」と建元するまでになった。

 大武芸およびそれを継いだ大欽茂(だいきんも)(在位737~794)の時代が対内的にも対外的にも大発展をみせた躍動の時代であった。領土も拡大し、中国風の都城も次々と建設され、首都は中京(ちゅうけい)→顕州→上京(じょうけい)→東京(とうけい)へとめまぐるしく変化した。なかでも東京は現在の中国、吉林(きつりん)省延辺朝鮮族自治州琿春(こんしゅん)県の半拉(はんら)城に比定されるが、ここは日本海貿易の要衝であり、また、前後200年の間に約50回に及ぶ使節交換を行った日本との関係が、渤海にとって非常にたいせつであったことをうかがわせる。第5代王のときに首都はふたたび上京に戻され、以後滅亡まで続いた。

 制度や文物は唐から直輸入したものが多い。とくにその支配機構の類似には目を見張るものがある。すなわち、中央には唐の三省六部に相当する政堂・宣詔・中台三省、忠・仁・義・智(ち)・礼・信の六部、御史台(ぎょしだい)にあたる中正台、九寺にあたる七寺などがあり、地方には京・府・州・県を置き、中央から都督・節度使・刺史(しし)・県丞(けんじょう)を派遣して治めさせた。また唐の十六衛にあたる十衛という中央の軍事組織もあった。つまり渤海は、当時の東アジア世界の中心である唐の強い影響下にあった新羅(しらぎ)や日本と同じく、中央集権的律令(りつりょう)国家の範疇(はんちゅう)に入るものであったといえる。しかしそれだけではなく、北アジア史のうえでは、のちに最初の征服王朝となった遼(りょう)(契丹)の先駆をなすものとも考えられる。

 渤海文化は、その基層には高句麗の文化があるが、やはり唐の強い影響を被っている。もちろん文化とよべるものは都市を中心に発達した貴族の文化であって、彼らは儒教思想を取り入れ、漢字を習い、官庁用語も文学もすべて漢文であった。この点も当時の新羅や日本とよく似ており、同様な理由から、おそらく渤海の仏教も貴族仏教あるいは国家仏教と位置づけてよかろう。壮麗な大伽藍(がらん)や石灯籠(どうろう)のみごとさは、仏教が民衆管理という政治的意図のもとに手厚い保護を受けたことをうかがわせる。

 9世紀前半の第10代大仁秀(在位818~830)のときに国土は最大となり、渤海は唐から「海東の盛国」とうたわれるほどの繁栄をみせたが、以後しだいに内部崩壊し、第15代の大譔(だいいんせん)の926年に契丹の攻撃を受けて滅亡。そして渤海の制度・文物や人的資源は契丹に受け継がれていくことになる。

[森安孝夫]

『鳥山喜一著『渤海史上の諸問題』(1968・風間書房)』『森安孝夫著『渤海から契丹へ』(『東アジア世界における日本古代史講座7』所収・1982・学生社)』『上田雄著『渤海国の謎――知られざる東アジアの古代王国』(講談社現代新書)』『朱国忱著、浜田耕策訳『渤海史』(1996・東方書店)』


渤海(海域)
ぼっかい / ポーハイ

中国北東部にある海域。北、西、南は遼寧(りょうねい/リヤオニン)、河北、山東の3省と天津(てんしん/ティエンチン)市に囲まれ、東は遼東(りょうとう/リヤオトン)半島と山東半島の間の渤海海峡で黄海に接続している。黄海との境は遼東半島南端の老鉄山角(ろうてつさんかく)から廟島(びょうとう)群島を経て山東半島北端の蓬莱角(ほうらいかく)を結ぶ線とされる。面積約9万7000平方キロメートル、平均水深は26メートルで、もっとも深い所でも水深75メートルの浅海である。沿岸には遼東湾、渤海湾、莱州湾などの内湾がある。黄河、海河、遼河などから大量の淡水が流入して海水と混合し、塩分濃度は平均約30、黄河河口では26にすぎない。そのため栄養分が豊富で、海底が平坦(へいたん)なこともあって底引網の好漁場である。遼東湾などの内湾部は冬季には広く結氷する。主要な水産物としてはキグチ、フウセイ、タチウオ、ヒラ、タイショウエビ、イシモチ、カニなどがあるが、漁獲量は減少。遼東半島や天津付近の海浜では製塩も盛んで、ことに天津付近に産する長瀘塩(ちょうろえん)の名で知られる。海底は地質学的には大規模な沈降性の盆地構造をなし、厚い堆積(たいせき)層に覆われている。この中に埋蔵されている石油や天然ガスの開発も進められ、すでに日中合弁の埕北(ていほく)油田など多くの油田、ガス田が開発されている。渤海をとりまく陸地部分の北京(ペキン)、天津の2市と遼寧、河北、山東の3省は、環渤海地域とよばれ、中国の七大経済地域の一つとして工業開発の重要施策対象にされている。

[河野通博]

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百科事典マイペディア 「渤海」の意味・わかりやすい解説

渤海【ぼっかい】

現在の中国東北部,シベリアの沿海州,朝鮮北部を領有し,7世紀末から10世紀初頭に栄えたツングース系の靺鞨(まっかつ)人の国。高句麗滅亡後,その遺民として唐の支配下にあった靺鞨人は,大祚栄(だいそえい)に率いられ,698年現在の吉林省の地に震国を建てて自立。祚栄は713年唐朝から渤海郡王に封ぜられ,以後渤海をもって国号とした。唐の制度・文物を取り入れ,律令体制をしき,仏教文化が栄えた。南方の新羅(しらぎ)とは対立したが,727年以後919年まで,日本とはしばしば通交した(遣渤海使)。ことに都の上京竜泉府(東京(とうけい)城)は栄え,〈海東の盛国〉と称せられたが,西方に興った契丹(きったん)のため927年に滅ぼされた。18世紀末以降,朝鮮の史家は渤海を高句麗の継承者としてとらえるようになり,新羅と並立する南北国時代と見る時代区分が今日では有力である。
→関連項目福良津満州耶律阿保機

渤海【ぼっかい】

中国,黄海北部,南の山東半島と北の遼東半島より奥の湾状の海域。両半島間には廟島群島がある。海岸線は単調で,水深は浅く,平均25mにすぎない。古くから沿岸は製塩地帯として有名。干満の差は3mに達する。沿岸漁業も盛ん。
→関連項目黄河

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普及版 字通 「渤海」の読み・字形・画数・意味

【渤海】ぼつかい

山東半島北の内海。〔史記、封禅書〕此の三山は、其の傅に渤中に在り。人を去ることからず。~蓋(けだ)し嘗(かつ)て至るり。び不死の、皆焉(ここ)に在り。

字通「渤」の項目を見る

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「渤海」の解説

渤海(ぼっかい)
Bohai

698~926

中国東北部の東部,ロシアの沿海地方,朝鮮半島北部を領域とした国家。668年に唐は高句麗を滅ぼしたが,高句麗の遺民と高句麗の服属下にあった靺鞨(まっかつ)の粟末(ぞくまつ),白山(はくさん)の2部族は大祚栄(だいそえい)に率いられて698年に震(しん)国を建てた。大祚栄は唐と修好して713年に渤海郡王に封じられ,以後,国号を渤海と称した。渤海国は15代続いた。第10代大仁秀(だいじんしゅう)の治世には極盛期に至り,中国の史書に「海東の盛国」と記された。渤海は唐の文化を熱心に取り入れて,律令国家体制をしき,仏教文化が栄えた。首都は何度かの遷都があったが,主に上京竜泉府(じょうけいりゅうせんふ)に置かれた。日本とは727年以降使節を派遣して友好関係にあった。926年に契丹(きったん)に滅ぼされた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「渤海」の解説

渤海
ぼっかい

高句麗の故地に靺鞨(まっかつ)系の大祚栄(だいそえい)が契丹(きったん)人の反唐活動に乗じて,高句麗遺民と靺鞨人を統合してたてた国(698~926)。はじめ震国,713年大祚栄が唐から渤海郡王に封じられてのち渤海と称した。2代大武芸(だいぶげい)は黒水(こくすい)靺鞨をめぐり唐と対立すると,727年高句麗の復興と称して日本に通好し,732年には唐の登州を急撃した。3代の大欽茂(だいきんも)は唐に通貢を重ね,唐の制度を受容し,中央に3省・6部,地方に5京・15府・62州と県を組織する中央集権体制を築き,内政の安定と文化の隆盛を得た。10代の大仁秀(だいじんしゅう)は領土を拡大し,「海東の盛国」とたたえられる繁栄を迎えたが,その後内紛が続き,契丹族の耶律阿保機(やりつあぼき)に王都上京龍泉府(現,中国黒竜江省寧安市渤海鎮)を陥され滅亡した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「渤海」の解説

渤海
ぼっかい

698〜926
中国東北地方・朝鮮北部に栄えた靺鞨 (まつかつ) 族の国
靺鞨系高句麗 (こうくり) 人大祚栄 (だいそえい) が唐の則天武后 (そくてんぶこう) の自立による変動に乗じて建国。初め震国と称したが,713年に唐の玄宗から渤海郡王に封ぜられて以後,渤海と改めた。唐と通交してその文物制度を取り入れ,一時は海東の盛国と称されるほど栄え,日本ともしばしば通交した。都は上京竜泉府 (じようきようりゆうせんふ) 以下の5京で,都城は唐の長安を模して建設された。満州北西部に勢力を得つつあった契丹 (きつたん) とはつねに敵対関係にあり,926年,契丹の耶律阿保機 (やりつあぼき) によって滅ぼされた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「渤海」の解説

渤海
ぼっかい

中国東北部・沿海州・朝鮮半島北部を支配した靺鞨 (まつかつ) 人の国家(698〜926)
靺鞨系高麗人の大祚栄 (だいそえい) が建国。唐・新羅 (しらぎ) を牽制するために727年日本に朝貢。のちには貿易の利を得ることを目的として,前後34回来日。日本もこれに対して送使を派遣した。毛皮・ニンジン・薬などを日本へ輸出し,絹・綿・工芸品などを日本から輸入。唐文化で渤海を経由して日本に伝わったものもあった。926年契丹に滅ぼされた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「渤海」の意味・わかりやすい解説

渤海
ぼっかい

「ポー(渤)海」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の渤海の言及

【遣渤海使】より

…728年(神亀5)から811年(弘仁2)まで約80年余にわたって日本から渤海へ派遣された13回の外交使節。渤海は698年旧高句麗領の大半を拠点とする高句麗人が各地の靺鞨(まつかつ)人を支配下に置く形で自立したが,当初より唐の冊封(さくほう)を受け,渤海郡王を称したのみでなく,西北の突厥,南の新羅に取り囲まれたきびしい国際環境にあった。…

【黄海】より

…中国では三大沿海の一つと称される。山東半島と遼東半島をつなぐ線より西は渤海といい,南は長江(揚子江)の河口と済州島を結ぶ線で東海と区切られる。黄河や海河,淮河(わいが)などの排出する泥砂により海面が黄色くみえ,この名がある。…

【能登国】より

…757年(天平宝字1)能登国は越中国から分立して復活した。日本海に突出して位置したため,古代には日渤交渉の拠点となり,渤海(ぼつかい)国使帰国のときの造船・出航基地であった。《延喜式》によれば,名神大社に羽咋郡の気多(けた)神社が見え,ほかに小社42座が官社として登載されている。…

※「渤海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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