幕末の江戸幕府陸軍の指揮官。幕府は軍制改革の過程で1862年(文久2)西洋式の陸軍を編成し,その総指揮官として中将に相当する陸軍奉行職を設け,12月1日前講武所奉行大関忠裕(増裕)を任じた。68年(明治1)2月までに延べ10名が任命されたが,当初は空席の時期が多く,1864年(元治1)10月以降は常時1~3名が在任した。場所高5000石,席次は駿府城代の上だが,66年(慶応2)10月以後は若年寄並以上の者が就任した。陸軍奉行は歩兵,騎兵,砲兵,撒兵(さんぺい)などの陸軍各部門のほか,1865年より八王子千人頭や講武所奉行配下の者を支配し,開成所の運営にも関与した。また,1863年7月には陸軍奉行並が置かれ,延べ25人が就任した。
執筆者:梅沢 ふみ子
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幕末期、江戸幕府の軍制改革で設置された職名。1862年(文久2)の軍制改革案では海軍奉行に次ぐ第六位に置かれていた。同年12月1日設置、講武所奉行大関増裕(おおぜきますひろ)(1837―66。下野黒羽(しもつけくろばね)藩主)が任命された。陸軍奉行は高5000石とし、駿府(すんぷ)城代の上に列して歩・騎・砲の三兵を統轄した。初め1名であったが、ついで2名ないし3名が同時に任じられた。大関に次いで、土井利善(としよし)(三河刈谷(かりや)藩主)、竹中重固(しげかた)、神保(じんぼう)相徳、松平(大給(おぎゅう))乗謨(のりたか)(信濃田野口(しなのたのくち)藩主)、溝口勝如(かつゆき)、稲葉正巳(まさみ)(安房館山(あわたてやま)藩主)、石川総管(ふさかね)(常陸下館(ひたちしもだて)藩主)、浅野氏祐(うじすけ)、竹中重固(再任)が任命されている。再任の竹中の辞任は68年(慶応4)2月9日。
[田中 彰]
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