東海林太郎(読み)ショウジタロウ

デジタル大辞泉 「東海林太郎」の意味・読み・例文・類語

しょうじ‐たろう〔シヤウジタラウ〕【東海林太郎】

[1898~1972]歌手秋田の生まれ。南満州鉄道社員から転身し、「赤城子守唄」「野崎小唄」などのヒット曲を残した。直立不動で歌う姿は有名。

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精選版 日本国語大辞典 「東海林太郎」の意味・読み・例文・類語

しょうじ‐たろう【東海林太郎】

  1. 歌手。秋田県出身。昭和前半期の代表的な歌謡曲歌手として活躍。「赤城の子守唄」「国境の町」「野崎小唄」など多くのヒット曲がある。明治三一~昭和四七年(一八九八‐一九七二

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「東海林太郎」の解説

東海林 太郎
ショウジ タロウ


職業
歌手

肩書
日本歌手協会会長

生年月日
明治31年 12月11日

出生地
秋田県 秋田市

学歴
早稲田大学商学部〔大正12年〕卒

経歴
大正12年満鉄に入社し、8年間勤務。その間、オペラ歌手を志し独学。昭和5年満鉄を退職。東京で下八川圭祐に師事しクラシック音楽を勉強。8年音楽コンクールでオペラのアリアを歌い入賞。9年ポリドールから発売した「赤城の子守歌」が記録的な大ヒットとなり、一転して流行歌手となる。以後、13年までポリドールの専属として「国境の町」「旅笠道中」「野崎小唄」「麦と兵隊」「上海街角で」など数多くのヒット曲を出し、ステージに、レコードに、放送に活躍。戦後、GHQCIE東海林をラジオでは積極的にとりあげないよう指令したため再登場が遅れた。40年キングレコードの「歌ひとすじ35年・東海林太郎傑作集」がLP売上げ新記録を樹立するなどで復活し、なつメロブームに火をつけた。特に直立不動の姿勢、ロイドめがね、燕尾服での歌唱で知られ、亡くなるまで約2000曲を歌った。38年から没するまで日本歌手協会初代会長を務めた。

受賞
紫綬褒章〔昭和40年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和44年〕 日本レコード大賞特別賞(第7回)〔昭和40年〕

没年月日
昭和47年 10月4日 (1972年)

伝記
大久保怜のナツメロの人々歌は思い出を連れてくる―昭和のメロディー、懐かしい歌歌謡界銘々伝昭和のすたるじい流行歌(はやりうた)―佐藤千夜子から美空ひばりへ「男の生き方」40選〈上〉歌ありて 大久保 怜 著塩沢 実信 著南原 四郎 著塩沢 実信 著城山 三郎 編清水 基吉 作(発行元 燃焼社展望社パロル舎第三文明社文芸春秋日本随筆家協会 ’02’00’94’91’91’86発行)

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改訂新版 世界大百科事典 「東海林太郎」の意味・わかりやすい解説

東海林太郎 (しょうじたろう)
生没年:1898-1972(明治31-昭和47)

第2次大戦前に人気の高かった歌謡曲歌手。秋田県出身。早稲田大学商学部卒業後,大陸に渡って満鉄に勤務,同付属鉄嶺図書館長となったのち職を辞して上京,下八川圭祐にクラシックの声楽を学ぶ。1933年《時事新報》主催のコンクールに入賞し,キングレコードに入社したが,34年2月,新興のレコード会社ポリドールから《赤城の子守唄》を出したところ大ヒットとなった。この曲は松竹の同名時代劇映画の主題歌で,やくざを主人公とし,1番の歌詞が4行から成るその各行に1回ずつ〈泣く〉という語が使われる(佐藤惣之助作詞,竹岡信幸作曲)という,それまでの歌謡曲にもなかったほど日本的な孤独感,悲愴感を強調したもので,いわゆる演歌調歌謡曲の嚆矢となった。その後も東海林は《旅笠道中》《野崎小唄》など日本情緒の時代物路線に沿ってヒットを出したが,舞台で歌うときの彼は薄化粧に燕尾服,直立不動の姿勢を保ち,折目正しさで有名になった。戦後も活動を続け,63年,日本歌手協会発足とともにその会長に就任した。
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20世紀日本人名事典 「東海林太郎」の解説

東海林 太郎
ショウジ タロウ

昭和期の歌手 日本歌手協会会長。



生年
明治31(1898)年12月11日

没年
昭和47(1972)年10月4日

出生地
秋田県秋田市

学歴〔年〕
早稲田大学商学部〔大正12年〕卒

主な受賞名〔年〕
紫綬褒章〔昭和40年〕,日本レコード大賞特別賞(第7回)〔昭和40年〕,勲四等旭日小綬章〔昭和44年〕

経歴
大正12年満鉄に入社し、8年間勤務。その間、オペラ歌手を志し独学。昭和5年満鉄を退職。東京で下八川圭祐に師事しクラシック音楽を勉強。8年音楽コンクールでオペラのアリアを歌い入賞。9年ポリドールから発売した「赤城の子守歌」が記録的な大ヒットとなり、一転して流行歌手となる。以後、「国境の町」「旅笠道中」「野崎小唄」「麦と兵隊」「上海の街角で」などヒット曲は数え切れず、ステージに、レコードに、放送に活躍。特に直立不動、燕尾服での歌唱で知られ、亡くなるまで約2000曲を歌った。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東海林太郎」の意味・わかりやすい解説

東海林太郎
しょうじたろう
(1898―1972)

歌手。秋田県生まれ。早稲田(わせだ)大学商学部卒業後、南満州鉄道に入社したが、鉄嶺(てつれい)図書館長を最後に8年間で退職。クラシック音楽で身をたてようと上京、下八川圭祐(しもやがわけいすけ)に師事する。1933年(昭和8)時事新報の音楽コンクールで上位入賞し、キングレコードに入社。34年ポリドール発売の『赤城(あかぎ)の子守唄(うた)』(佐藤惣之助(そうのすけ)作詞、竹岡信幸作曲)が大ヒットし、股旅(またたび)歌謡曲の基礎をつくった。燕尾服(えんびふく)姿で直立不動、端正な歌いぶりで有名。ほかに『国境の町』『むらさき小唄』『野崎小唄』などのヒット曲があり、65年(昭和40)には流行歌手として初の紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章した。

[斎藤 明]

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百科事典マイペディア 「東海林太郎」の意味・わかりやすい解説

東海林太郎【しょうじたろう】

歌手。秋田県出身。34歳で声楽コンクールに入賞,歌謡曲歌手としてデビュー。1934年の《赤城の子守歌》が大ヒット,その後1938年までの5年間に数多くのヒットを記録。1963年日本歌手協会初代会長に就任。1965年歌謡界初の紫綬褒章を受賞した。独特の直立不動姿勢の歌唱スタイルで知られる。
→関連項目歌謡曲

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「東海林太郎」の解説

東海林太郎 しょうじ-たろう

1898-1972 昭和時代の歌手。
明治31年12月11日生まれ。下八川圭祐(しもやがわ-けいすけ)に師事。昭和9年「赤城の子守唄」が大ヒットし,以後「国境の町」「野崎小唄」「麦と兵隊」など数おおくのヒット曲をだす。ロイドめがね,燕尾(えんび)服,直立不動の姿勢が特徴だった。日本歌手協会初代会長。昭和47年10月4日死去。73歳。秋田県出身。早大卒。

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367日誕生日大事典 「東海林太郎」の解説

東海林 太郎 (しょうじ たろう)

生年月日:1898年12月11日
昭和時代の歌手。日本歌手協会会長
1972年没

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世界大百科事典(旧版)内の東海林太郎の言及

【赤城の子守唄】より

…1934年の松竹映画《浅太郎赤城の山》の主題歌。この映画は,赤城山に潜伏中の国定忠治と子分の板割浅太郎を描いた映画だが,中年から歌手となってポリドール入りした東海林(しようじ)太郎が歌った主題歌が大ヒットした。同年2月のレコード発売以来今日まで歌われつづけている。…

※「東海林太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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