紀太理兵衛(読み)きた・りへえ

朝日日本歴史人物事典 「紀太理兵衛」の解説

紀太理兵衛

没年:延宝6.3.4(1678.4.24)
生年:慶長8(1603)
江戸初期の高松陶工近江(滋賀県)信楽の出で,もと森島作兵衛重利といった。父は豊臣秀吉旗本であったが,郷里にもどり製陶にたずさわっていた。重利は父の業を継ぎ,京に上り,粟田口修業を積んでいたが,慶安2(1649)年に高松藩主松平頼重に召し抱えられ,名を紀太理兵衛と改め,以後御用焼物師を勤めた。作風は京焼の色絵陶器を主流とし,茶道具や装飾具も作ったという。作品には銘はなく,俗に古理兵衛と呼ぶ。以後紀太家は家業を守り,13代の当主がその伝統を受け継いでいる。<参考文献>豊田基「讃岐のやきもの」(『日本やきもの集成』10巻)

(矢部良明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「紀太理兵衛」の解説

紀太理兵衛(初代) きた-りへえ

1603-1678 江戸時代前期の陶工。
慶長8年生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)信楽(しがらき)の人。京都粟田口(あわたぐち)で修業する。慶安(けいあん)2年讃岐(さぬき)高松藩主松平頼重(よりしげ)の御用焼物師となり,名を森島作兵衛重利から紀太理兵衛とあらため,高松焼(一名理兵衛焼)を創始野々村仁清(にんせい)風の色絵陶器をつくった。延宝6年3月4日死去。76歳。

紀太理兵衛(2代) きた-りへえ

?-1704 江戸時代前期の陶工。
初代紀太理兵衛の子。讃岐(さぬき)高松藩の御用焼物師の家業をつぎ,高松焼の作陶にしたがう。藩主から,破風高(はふだか)とよばれる高の字の印銘をあたえられ,以後代々使用した。元禄(げんろく)17年2月6日死去。名は重治。

紀太理兵衛(9代) きた-りへえ

?-? 幕末-明治時代の陶工。
慶応2年(1866)家業の讃岐(さぬき)高松藩御用焼物師をつぐ。京都の3代高橋道八に師事。明治3年名を理平にあらため,煉瓦(れんが)製造も手がける。一時京都に出,30年ごろ帰郷して高松焼を再興した。名は惟通。通称は亀之丞。

紀太理兵衛(4代) きた-りへえ

?-1784 江戸時代中期の陶工。
3代紀太理兵衛の養子となり,讃岐(さぬき)高松藩の御用焼物師の家業をつぐ。天明4年死去。本姓は蓮井。名は惟久。通称は弥助または伊三郎。

紀太理兵衛(8代) きた-りへえ

?-? 江戸時代後期の陶工。
讃岐(さぬき)高松藩の御用焼物師。天保(てんぽう)8年(1837)に家業をついだ。名は惟貞。通称は岩之丞。

紀太理兵衛(3代) きた-りへえ

?-1738 江戸時代中期の陶工。
2代紀太理兵衛の子。讃岐(さぬき)高松藩の御用焼物師の家業をつぐ。元文3年4月2日死去。名は行高。

紀太理兵衛(5代) きた-りへえ

?-? 江戸時代後期の陶工。
4代紀太理兵衛の養子。讃岐(さぬき)高松藩の御用焼物師の家業をつぐ。本姓は中節。名は惟清。通称は三千蔵。

紀太理兵衛(6代) きた-りへえ

?-? 江戸時代後期の陶工。
讃岐(さぬき)高松藩の御用焼物師の家業をつぐ。名は惟持。通称は三千蔵。

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