生没年未詳。江戸初期(17世紀後半)の京焼の名工。丹波(たんば)国(京都府)野々村の出身と伝えられ、本名は清右衛門(せいえもん)。早くから京都粟田口(あわたぐち)で修業し、ついで瀬戸に赴き茶陶を学んだ。帰洛(きらく)後、茶人金森宗和(かなもりそうわ)の推挙で洛西の御室(おむろ)仁和寺(にんなじ)門前に開窯。門跡から仁和寺の仁と清右衛門の清をとった仁清の号を賜り、以後これを銘印とした。
仁清の名は慶安(けいあん)2年(1649)の文献に初出する。作品のほとんどが茶器や懐石道具で、当時すでに時流は、従来の「わびさび」から「きれいさび」にかなう華美な茶風に移行し始めていたため、みごとにこの傾向をとらえ、すでに京で試みられていた色絵上絵付(うわえつけ)法を習得し、新様式の頂点にたつ陶工として絶大な声価を得た。その指導者として宗和の存在は大きく、もっぱら宗和好みの「きれいさび」の美意識に基づく茶陶が焼かれた。1656年(明暦2)宗和が没するまでには色絵法を大成し、以後1660年代~70年代が全盛期と推測される。仁清の作陶を代表する色絵陶磁の多くはこの時期の焼造とみられ、梅月・藤(ふじ)・吉野山・若松・芥子(けし)などの茶壺(つぼ)、梅・牡丹(ぼたん)・菊水などの水指(みずさし)、雉子(きじ)や法螺貝(ほらがい)の香炉などが著名で、国宝、重要文化財の指定も多い。茶人や宮方の需要にちなんで形や文様に堂上趣味の意匠の著しいのも仁清作品の特色といえる。
1694年(元禄7)までには2代清右衛門が家督を継いでいるが、その力量は初代にはるか及ばず、御室焼とも称された仁清窯も一挙に凋落(ちょうらく)したと考えられる。したがって遺品には2代目の作品もあるはずであるが、その弁別は不詳。作品は量産品と一品制作とを区別したものと思われ、現存する「仁清」の捺印(なついん)のある遺品のほとんどは一品制作であり、類型的なものの大半が消失していることが、窯址(ようし)出土の陶片と伝世品との比較から判じられる。
[矢部良明]
『河原正彦編『日本陶磁全集 27 仁清』(1976・中央公論社)』▽『満岡忠成編『世界陶磁全集 6 江戸(1)』(1975・小学館)』
江戸前期の京焼陶工。生没年不詳。野々村清右衛門といい,丹波国野々村(現京都府南丹市,旧美山町)の出身といわれる。若くして瀬戸,美濃,京都粟田口などで陶法を学び,1647年(正保4)ころ御室(おむろ)仁和寺門前に御室焼をはじめた。明暦年間(1655-58)には仁和寺の〈仁〉と清右衛門の〈清〉の字を合わせて〈仁清〉と称し,製品に〈仁清〉の銘印を捺(お)した。開窯期の御室窯は唐物や瀬戸写しの茶入,高麗茶碗写しなどを主流に金森宗和好みの斬新な器形,瀟洒な銹絵(さびえ)(鉄絵の一種)や染付,色絵などを施した茶器や懐石道具などを製作した。宗和はとくに御室焼の製品を自身の茶会にも多用し,また大名,武家,町人たちにも斡旋するなど,御室窯の指導と普及に努めた。記録や遺品から推して万治~延宝(1658-81)ころが御室窯の全盛期とみられ,茶碗,水指,香合などのほか,雉子(きじ),法螺貝(ほらがい),海老などを形どった掛花入や香炉,また華麗な絵付の茶壺を作っている。赤,緑,青,黄などに金・銀彩を加えた色絵陶器が最も名高く,仁清は生存中にも京焼色絵陶器の大成者として評価されていた。73年(延宝1)ころ家督を嫡男安右衛門(襲名して2代清右衛門)に譲り,晩年には尾形深省(乾山)に陶法を伝授したらしいが,94年(元禄7)ころには没したものとみられている。なお乾山への陶法伝書は乾山自筆の《陶工必用》に写しが収められ,仁清の陶法を知る重要な資料である。
執筆者:河原 正彦
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生没年不詳。京都御室(おむろ)焼の主宰者で,京焼色絵陶器の大成者。俗名清右衛門。丹波国野々村生れ。若くして瀬戸で修業し,京都御室仁和寺門前で製陶を行う。「隔蓂記(かくめいき)」の慶安2年(1649)条に清右衛門の名が認められ,1657年(明暦3)仁和寺宮から「仁」と清右衛門の「清」をあわせた仁清の号を与えられた。量産型の茶碗を多く焼いたが,主力製品は一品製作の色絵磁器だった。同年には色絵法を完成し,洗練された優雅な作風は一世を風靡した。現在に伝わる17世紀の京焼の名作は,彼の作品に集約される。色絵藤花文茶壺(MOA美術館蔵。国宝)はその代表作。
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… また,陶磁器では,江戸初期に大量に輸入された中国陶磁の刺激による色絵磁器の技法の開発が特記される。1640年代になって酒井田柿右衛門が赤絵磁器の技法を工夫し,これを契機に有田(伊万里),古九谷,鍋島などすぐれた色絵・染付磁器が各地で焼かれ,野々村仁清による色絵陶器と相まって日本陶磁史上の一つの頂点を形成した。これらの磁器は,当時南蛮焼と呼ばれていたように,中国磁器の様式に強く影響されたものであり,中国的な意匠による有田(伊万里)焼は,清代の磁器に代わってヨーロッパに大量に輸出された。…
…しだいに銹絵(さびえ)や染付なども併用し,瀬戸の緑釉(織部釉)や交趾(こうち)釉,七宝釉,色楽釉などを用いて,京焼色絵陶器の先駆的なものが作られた。これらの陶技が集大成され,京焼の存在が広く知られるようになるのは,野々村仁清による〈御室(おむろ)焼〉の出現によってであった。仁清は1656‐57年(明暦2‐3)ごろから本格的な色絵陶器を焼造した。…
…金堂は国宝,五重塔,御影堂,二王門,中門,観音堂などは重要文化財,庭園は池泉回遊式で飛濤亭(ひとうてい),遼廓亭(りようかくてい)の茶室(いずれも重要文化財)がある。 寛永再建のころ,野々村仁清が当寺門前辺に窯を開き,仁清窯また御室焼と呼ばれて公家,社寺,武家,上層町衆に好まれたことは有名である。江戸後期には大内山の西の成就山に四国八十八ヵ所霊場をうつして,御室八十八ヵ所として庶民信仰を集め,現在も参詣者が多い。…
※「野々村仁清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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