EU誕生(読み)いーゆーたんじょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「EU誕生」の意味・わかりやすい解説

EU誕生
いーゆーたんじょう

EU誕生までの略史


 ヨーロッパ統合は1985年以降、1950年代の創成期に次ぐ第2の隆盛期を迎えて、1993年1月から単一市場が始動した。マーストリヒト条約(1993年11月発効)によって、経済を中心としたEC(ヨーロッパ共同体)は、政治や安全保障でも統合を目ざすEU(ヨーロッパ連合)に発展的に強化されて単一通貨のユーロも発行するようになった。その加盟国は当初の6か国から27か国(2020年イギリスの離脱による)に増えた。

 国家主権に歯止めをかける超国家機構によって平和と繁栄を追求しようとするEUの手法は、冷戦後の世界政治の一つのモデルとみなされるようになった。アメリカがNAFTA(ナフタ)(北米自由貿易協定。2020年、米国・メキシコ・カナダ協定の発効に伴い失効)を結成し、日本などがAPEC(エーペック)(アジア太平洋経済協力)を設けて関税同盟による経済の活性化につとめているのは、EUの試みと実績に触発されてのことである。EUのダイナミズムは世界政治のあり方までも変えつつある。

[横山三四郎]

超国家機構としての共同体の成立

EUにはほぼ半世紀におよぶ歴史がある。そのなかでもっとも重要なことは、フランス政府の企画担当ジャン・モネが1950年に発案し、外相ロベール・シューマンを通じて発表した超国家的(supranational)な共同体の創設だった。これはドイツとフランスが戦えないようにするという不戦の機構であって、その精神は今日もEUの根幹をなしている。

 この仕組みの核心は、不可侵とされてきた国家の主権を部分的にしばり、それを超国家機構である共同体に委ねるところにある。この構想は戦争を遂行するための鉄とエネルギー(石炭)をドイツとフランスから取り上げて、その生産から販売までを超国家機構であるECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体、1951年創設)が行うことによって初めて具体化された。

 この方式はその後、経済の一体化を目ざすEEC(ヨーロッパ経済共同体)、原子力の平和利用のためのEURATOM(ユーラトム)(ヨーロッパ原子力共同体)へと広げられて、これらの超国家共同体は1967年、ECに一本化された。しかし国家主権を制限する超国家創造の試みは、国家主権を尊重する人々の反発を招かなくもなかった。

 愛国主義者として知られるフランス大統領シャルル・ドゴールは、ECが国家主権をないがしろにすることもありうる多数決による議決制度を採用しようとしたとき、フランス代表団を引き揚げてECを崩壊の瀬戸際に追い込んだ。この政策はヨーロッパでの孤立化を恐れる経済人や農民に批判されたために、ドゴールは1966年初め、半年にわたるボイコットをやめ、ECは危うく解体を免れる。けれども復帰の条件としてフランスが「全会一致への努力」を求めたことから、ヨーロッパ統合は足踏みすることになった。

 そのころECはすでに市場や通貨の統合を視野に入れており、1968年に関税同盟を完成させ、1970年には野心的な通貨統合の計画を立てていたが、1973年の第四次中東戦争に伴う第一次石油ショックに襲われ、このため加盟各国は自国の経済再建に追われて、共同体で協力し合う余裕を失った。しかし自国の経済のために各国が勝手な保護主義に走ったことは、かえってヨーロッパの国際競争力を殺ぐ結果となった。1979年にはイラン革命による第二次石油ショックにみまわれ、さらに先端技術の開発に出遅れたために日本などのアジア諸国やアメリカからの新製品の攻勢にさらされるようになって、ヨーロッパ企業は不振に陥った。

 経済の低迷のなかでヨーロッパではユーロペシミズム、ユーロスクレロシス(ヨーロッパ動脈硬化症)といった言葉が語られるようになった。経済不振は政治の不安定化を伴い、イギリスでは1979年に労働党が敗れて保守党のサッチャー政権が誕生、フランスでは1981年に社会党のミッテランが大統領となり、政権を握った。

[横山三四郎]

単一市場の創設へ

こうした状況の下でヨーロッパ議会では共同体の精神の原点に戻り、加盟国間の国境をなくして本当の意味での単一市場を建設することが提案された。1983年の議会報告書(アルバート・ボール報告)は、経済の停滞の原因は各国の保護主義政策やヨーロッパが国境で区切られた小さな市場に細分化されているところにあると指摘した。1985年1月からEC委員長に就任したジャック・ドロール(元フランス蔵相)は「このままではヨーロッパはわれわれの料理と文化を好むアメリカ人や日本人のための博物館と化してしまうだろう」と語り、ヨーロッパ再生のためになんとしても単一市場を創設すると宣言した。準備期間は8年間、1992年末を完成目標に定めた。そのためには各国がおよそ300の法令(その後重複を整理して282)を整備する必要があるとされた。

 ECを真にボーダレスな一つのマーケットにしようとする提案は単一ヨーロッパ議定書に条文化され、1986年2月の首脳会議で採択、調印された。同年1月に新規加盟したスペインとポルトガルを含む12か国の批准が終わって発効したのは1987年7月である。議定書は市場統合に関する議題についてはほぼ全面的に特定多数決(加盟国が人口、経済などの国力を加味した票数をもつ議決制度)で採決を行うことを定めた。1988年には単一市場の完成による経済効果を予測するチェッキーニリポートがまとめられた。1万1000に上る企業について3年がかりで行った調査に基づく同報告は、「短期的には企業再編の苦痛が伴うだろうが、中長期的にはスケールメリット、競争強化、効率・技術の改善、コスト低下によってECの企業活動は活況を取り戻して国内生産を増やし、雇用の増大をもたらす」との明るい見通しを示した。

[横山三四郎]

国境なき市場とその波紋

国境のない単一市場に備えての企業の激しい競争が始まった。国家の保護のなかで安穏としていた企業は、単一市場になればヨーロッパのみか世界的な国際競争にさらされることになる。単独では競争に勝ち抜くことができないと考えた企業は、競合する企業との合併や提携に走った。

 ECを舞台にした企業の合併・買収(M&A)は、1990年には全世界のM&Aの53%、1900件、金額にして335億ポンド(当時の為替レートで約8兆円)という世界経済史上例のない規模に達した。これにはECは単一市場を完成させたら外国製品を締め出して「要塞化」するのではないかと懸念するアメリカや日本の企業も加わった。日本の直接投資はピーク時の1989年度に140億ドル、1990年度にも133億ドルに達した。

 こうしてECには単一市場の完成より一足早く経済ブームが訪れた。これが副次効果を生んだ。西ヨーロッパ諸国の好況は隣接するソ連・東欧の市民を動揺させて、1989年夏には東ドイツ国民が大挙、ハンガリー経由で西ドイツに脱出して鉄のカーテンに穴を開けた。これをきっかけに同年11月9日、ベルリンの壁が崩れ、東欧諸国に将棋倒しの民主化革命が起きた。東欧の民主化はゴルバチョフ・ソ連大統領のイニシアティブがなければ始まらなかったかもしれないが、西ヨーロッパに単一市場を目ざす熱気が充満していなければ、鉄のカーテンが消滅して世界の歴史の流れががらりと変わるまでには至らなかったかもしれない。

 冷戦後はヨーロッパでも、東西ドイツの統合などの影響でバブルの崩壊に似た経済不振がみられた。しかし単一市場が1993年1月から本格的に始動したのに伴って、1990年代半ば以降、金融からマルチメディア、航空、製薬などあらゆる分野でシェア争いと企業の再編が再び活発に行われるようになった。そこには旧東欧諸国の企業も巻き込まれている。また東西対立の消滅に伴う経済のグローバル化と絡み合って、単一市場はヨーロッパのみならず大陸間の巨大なM&Aの主要舞台として躍り出た。1996年にイギリスのBT(ブリティッシュ・テレコム)によるアメリカのMCIの買収で利益額世界第3位の総合電話会社が誕生したことはその一例にすぎない。ヨーロッパ統合の勢いは大陸間の国際資本の集約に火をつけて、大競争時代の幕が開けた。

[横山三四郎]

市場統合で実現した四つの自由


 ヨーロッパのEU単一市場は予定通り1992年末に完成して1993年1月1日から始動した。これに伴い当時の加盟12か国の間で人、物(商品)、カネ(資本)、サービス(保険、医療、教育など)について移動が自由になり、国境という障害がなくなった。国境の変更や消滅というものは戦争か革命でもなければあり得ないことだったが、EUはいわば無血革命で四つの自由を実現したといえる。

 [注=単一市場がスタートした1993年、マーストリヒト条約(ヨーロッパ連合条約、Treaty on European Union)の発効に伴って、ECはEUとなったので、これ以降、EUの名称を使用する。EC委員会(The European Commission)もEU委員会と表記する]
[横山三四郎]

人の移動の自由

加盟各国の国民は国境での出入国審査(パスポート・チェック)が廃止されて、自由に往来できるようになった。自動車や鉄道についても国境での検問がなくなった。このため多くの空港ではEU市民であることを示すEU共通サイズのパスポートを手にかざすだけで入国できるようになった。

 ただオーストリア、イギリス、アイルランド、デンマークは麻薬犯罪者や難民の流入を恐れて、完全な国境管理の廃止に難色をみせた。テロが頻発したときにはフランスは臨時に国境検問を行った。また、EU域内でのペットの移動に際しては、狂犬病などのワクチン接種歴や病歴などが記載されたペット専用パスポート(イヌ、ネコ、フェレットが対象)が2004年10月より導入されている。

[横山三四郎]

物(商品)の移動の自由

各国の商品については国境での輸出入の許可申請、納税といった煩雑な手続きがなくなった。これにより通関待ちのトラックが国境で長蛇の列をつくる光景は過去のものとなった。これらの商品の安全基準はEUがある程度まで統一基準を設けているが、基本的には「EUのある加盟国で合法的に製造・販売されているものは、他の国はこれを受け入れなければならない」とするヨーロッパ裁判所の判例(ディジョンのカシス裁判)が適用されている。もっともイギリスはポルノについての独自の倫理基準を譲らず、わいせつ写真などの国内持ち込みをチェックした。

[横山三四郎]

カネ(資本)の自由

域内での資本の移動の自由化は、単一通貨の発行を目ざす経済通貨同盟(EMU)の第1段階の一つに位置づけられて、一部諸国を除いて1990年7月から早々と実施されていた。企業にとって単一市場での円滑な業務に資本の移動の自由は欠かせないからだ。いちいち許認可を取る面倒がなく、お金を自由に動かすことができるようになったことでEU企業の国境を越えた活動に拍車がかかった。

 各国の銀行は域内諸国に支店を設けたり、その国の銀行と提携して、域内どこでもキャッシュカードでお金を引き出せるシステムを導入した。また外国での高額の買い物の税金については、従来は外国人として無税で買ってきて、税関で自分の国の税率で払っていたが、購入地でその国の税率に従って支払う方式に切り替わった。

[横山三四郎]

サービスの自由

人やカネの移動の自由と絡むことだが、医者や看護師、弁護士、税理士、教員など国家資格はEU共通でどの国でも有効とされ、域内の希望する国に事務所を設けて働くことができるようになった。それだけでなく労働者は域内のどの国であっても就労することができ、社会保障の年金も国を問わず加算されて、引退後は働いたことのある好きな国で老後を過ごすことができることになった。

 鉄道は従来はそれぞれの国営鉄道で、それぞれの国内の線路しか走れなかったが、ダイヤさえ空いていれば原則として域内のどの国でも自由に列車を走らせることができるようになった。このため域内での高速鉄道建設計画が進められ、また、国営鉄道の民営化も進められた。航空界はさらに徹底した自由化の嵐にさらされ、1993年以降、運賃の設定が自由になって航空券の値引き競争が激化した。1997年4月からはどのEU加盟国の航空会社であっても域内のどこにでも航空路を設けることができるようになり、生き残りを賭けて航空会社間の提携、M&Aが展開された。

[横山三四郎]

ヨーロッパ連合条約(マーストリヒト条約)


 1991年12月、オランダのマーストリヒトでの首脳会議でヨーロッパ連合条約(Treaty on European Union=EU条約、マーストリヒト条約とよばれる)が採択された。条約は翌1992年2月調印され、デンマークで否決されて国民投票が二度行われるなど難航の末、1993年11月に発効した。条約は単一市場が完成した後のヨーロッパ統合の設計図を描いたものである。

 マーストリヒト条約には特記すべきことが二つある。それは単一市場の次の大目標として単一通貨の発行を明確に据えたこと、またこれまでヨーロッパ統合の主要な目的としてきた経済の枠を大きく超えて、外交政策や安全保障、さらにはヨーロッパ市民権という考え方を盛り込むなど社会政策でも統合を進める方針を打ち出したことだ。

 EUの役割をそこまで拡大しようとすることには、国家主権を重視するイギリスのサッチャー首相(当時)が激しく反対した。しかし統合に向かうヨーロッパの潮流からイギリスが外れて孤立することを恐れる与党議員から批判されて、サッチャーは辞任(1990年11月)に追い込まれた。主権国家と超国家の競い合いはEUの宿命といえる。超国家EUを10年間率いて、単一市場という歴史的な偉業を達成したジャック・ドロールは1994年いっぱいで退陣し、1995年1月からは元ルクセンブルク首相、ジャック・サンテールJacques Santer(1937― )がEU委員長に任命されたが、1999年3月に辞任。その後をひきつぎ同年、元イタリア首相のロマーノ・プロディがEU委員長に就任し、単一通貨の発行に取り組んだ。単一通貨ユーロの発行により、ヨーロッパはユーロ通貨が流通するEU圏を中心に、その他のEU圏、EU非加盟国という同心円の三重構造を形成することになった。

[横山三四郎]

単一通貨ユーロ発行のスケジュール

マーストリヒト条約は単一通貨の発行のスケジュールを次のように定めた。

 (1)単一市場のために実施した域内でのお金の移動の自由に続いて、1994年1月から経済通貨同盟(EMU)の第2段階に入り、EMI(ヨーロッパ通貨機構)を設置する。EMIは単一通貨を発行するECB(ヨーロッパ中央銀行)の準備機関。(2)1996年末までに加盟国の過半数が必要な条件を満たせば、1997年1月にも単一通貨に移行する第3段階に入る。(3)1997年末までに(2)が実現できない場合には、条件を満たした国だけで1999年1月1日から第3段階に入って単一通貨に移行する。

 1997年からの単一通貨発行は条件を満たす加盟国がほとんどなかったために自動的にスケジュールが延期されて、1999年1月1日が新たな目標になった。1995年12月のマドリードのEU首脳会議は単一通貨の名称をユーロ(Euro)と決めるとともに、その実施細目について改めて次のように定めた。

 (1)1997年の財政状況に基づいて、1998年初めに通貨統合の参加国を決め、ECBを設立する。(2)1999年1月1日に通貨統合に入り、参加国の通貨と単一通貨ユーロの為替レートを固定する。各国通貨はそのまま流通する。国の金融決済や外国為替市場でのユーロの使用を奨励する。(3)3年後の2002年1月1日から新通貨ユーロの紙幣、貨幣を発行し、流通させる。参加国の通貨とユーロの交換は6か月間で完了する。(4)2002年7月以降、参加国ではユーロ紙幣、ユーロ貨幣だけが有効となる。

 また1996年12月、ダブリンで開催されたEU首脳会議はユーロ通貨を導入した後の財政安定化の取り決めで合意した。ユーロ安定化協定によれば、通貨統合後も参加国の財政赤字はGDP(国内総生産)の3%以内に抑え、それを超えたときには課徴金を課すことになった。不況でGDPが年率2%以上も落ちるような場合は罰則の免除などを決めたが、通貨統合後も厳しい財政管理が続くことになった。

[横山三四郎]

通貨統合の条件

単一通貨の安定のためEUは通貨統合への参加の条件として厳しい基準を設けた。それは、(1)放漫財政の国であってはならず、財政赤字はGDPの3%以内。(2)累積政府債務はGDPの60%以内。(3)インフレの国であってはならず、消費者物価上昇は低いほうの3か国の平均から1.5%以内。(4)長期金利は消費者物価指数の低いほうの3か国の平均金利(長期国債金利)の2%以内。(5)安定した通貨でなければならず、過去2年間に通貨の切り下げをしていない、というもの。

 このなかで加盟国がとりわけ苦慮したのは財政赤字の条件だった。フランスは財政赤字基準を1997年中に達成するために1995年度から財政支出に大ナタをふるわざるを得ず、公務員給与を凍結したほか、社会保障費まで切り詰めた。単一市場化で企業のリストラクチャリングが行われ、それでなくとも高い失業率に苦しむ国民の不満が高まってストライキが続発した。ドイツも1997年度財政支出を削減してまで基準の達成につとめた。イタリアはなんとか参加したいと希望したが、累積債務がGDPの120%もあって基準の達成に苦しんだ。

[横山三四郎]

単一通貨ユーロのメリット

EUが通貨の統合を目ざしたのは、市場を統合して資本の移動の自由を謳(うた)ったところで、各国がそれぞれ別の通貨を使っていては真の経済統合にならないという考えからだ。実際、為替レートはつねに変動し、両替費用もかかって商取引の障害になっており、単一通貨ユーロが生まれることによる商業上の利益は大きいものがある。ユーロは外貨保有にも利用され、世界経済におけるヨーロッパ経済の地位の向上につながることをフランスなどの参加国は期待した。またドルに次ぐ第2の基軸通貨ユーロの誕生に伴い、ドルとユーロ、円とユーロの為替レートが絡み合い日本経済にも多大な影響を及ぼすことになった。

 ただ自国の通貨がなくなることに反発する国民も少なくなく、とくにドイツでは強く安定したマルクを放棄することに強い抵抗があった。しかし統合推進派のなかにはまさにそのために通貨を統合して単一通貨を創出したほうがいいという考え方があった。ヨーロッパ統合を進めるには国家の象徴となっている各国通貨はなくすのが望ましいという立場からだ。

[横山三四郎]

政治統合と安全保障

マーストリヒト条約によってEUは政治統合にまで踏み込んだ。これは単一市場への過程で冷戦体制が崩れ、ドイツ統一が実現したことから、第一次・第二次世界大戦を引き起こしたドイツが将来ふたたびヨーロッパの禍根にならないよう、統一ドイツをEUにしっかり組み込んでおく必要があるというフランスなどの強い意向から実現したものだ。このため条約では加盟国は防衛政策を含む共通の外交・安全保障政策をとることが定められた。ヨーロッパ統合の当初の目的がここにふたたび登場したといえる。

 安全保障はEUと加盟国が重なる西ヨーロッパ連合(WEU)を通じて行うが、それは北大西洋条約機構(NATO(ナトー))の政策とは矛盾しないものとすることが明記された。EUの軍事部門に位置づけられたWEUはヨーロッパ軍(Eurocorps、司令部ストラスブール、兵員3万5000人)を設けたが、これにはフランス、ドイツ兵を中核にベルギー、ルクセンブルクも参加している。

 またイスラム原理主義過激派による政情不安が高まっている中東、北アフリカ情勢に対応するため、WEUは1996年5月、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル4か国の陸海軍によるヨーロッパ地中海軍(司令部イタリアのフィレンツェ、兵員1万~1万5000人)を創設することを決めた。

[横山三四郎]

ヨーロッパ市民権

マーストリヒト条約にはヨーロッパ市民権という考え方が盛り込まれている。単一市場のおかげでEU加盟国の国民はパスポートや自動車免許証までが共通になって、経済的、社会的に国境の壁を感じることが少なくなってきている。2002年には、参加各国の紙幣・硬貨がユーロに切り替えられ、市民は同一の通貨を使うようになった。

 しかしヨーロッパは多様な民族の国のモザイクだ。言語ばかりでなく、宗教、文化、気質までが、地域、国によって異なる。互いに接触が深まるにつれて逆に摩擦が起こることもありうる。EUは共通の労働時間や労使交渉などを規定して労働者の権利を守ろうとする社会憲章をまとめたが、自由市場主義の気風の根強いイギリスは、労働条件にまでEUが介入することは自由な経済の発展を損なうとして、EU労働時間指令の適用除外をうけている。

[横山三四郎]

EUの拡大


 ヨーロッパ統合は最初、6か国(フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)で始まったが、イギリス、アイルランド、デンマーク、ギリシア、スペイン、ポルトガルが1970~1980年代に新たに加盟して12か国になった。EUになってからも1995年1月からオーストリア、スウェーデン、フィンランド、2004年5月にはバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、マルタ、キプロスの10か国、2007年1月にはブルガリア、ルーマニアが加わって参加国は27か国にまで増えた。

 これにより世界最大の市場であるEUは人口約4億9000万人になった(日本1億2700万人、アメリカ2億8800万人)。経済規模は6兆ドルを超え、アメリカを上回った。この間、スイスとノルウェーが参加を承認されながら国民投票で否決されたために、加盟しなかった(1992年12月のスイス国民投票は賛成49.7%、反対50.3%。1994年11月のノルウェー国民投票は賛成47.8%、反対52.2%)。既加盟国においてもEUに参加していることの利益が体感できないだけでなく、むしろ不況感が強いために国民の支持は賛否が拮抗している。

 繁栄する西ヨーロッパをみて鉄のカーテンを引きちぎった旧東欧諸国の間にはなおEUへの加盟の希望が高い。1997年3月にはロシアまでが「EUに加盟してヨーロッパの一員となりたい」(エリツィン大統領)との意思表示を行った。前述のように中・東欧諸国のうちこれまでにバルト三国、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、ルーマニア、ブルガリアが加盟しており、2013年7月にはクロアチアの加盟が決定した(この時点で参加国は28か国。のち、2020年1月、イギリスの離脱によって27か国)。地中海地域ではマルタ、キプロスが加盟したが、トルコの参加が検討されている。

 しかし加盟国が増えれば増えるほど意思決定が難しくなる。またせっかく政治統合にまで踏み込んだEUの結束が乱れる恐れがあるため慎重論が強まってきた。これについては国によって意見が異なり、イギリスは増やして自由市場を拡大すべきだと主張したが、フランスなどはこれ以上の加盟については単一通貨の発行が軌道に乗って、EUの核が固まってからの検討課題にすべきだと考えた。

[横山三四郎]

EUと日本とアジア

EUと日本

EUが単一市場の建設に乗り出してからヨーロッパに進出する日本企業が増え、製造業(日本側出資比率10%以上)だけで1995年末に727社に達した。1985年末には219社にすぎなかったから10年で3.5倍という劇的な増えようだ(JETRO調査)。サービス業や研究開発部門もこれと同様の進出ぶりをみせて、ヨーロッパの主要都市には日本人街が誕生した。

 日本企業のヨーロッパ進出はバブルの崩壊で一時沈静化し、撤退したところもあったが、ふたたび増勢に転じた。これはEU単一市場で勝たなければ世界全体でも勝てないと考えてのことで、世界経済のグローバル化という新しい要因が加わったためとみられている。これまで各企業は進出の理由について、(1)需要の拡大、(2)消費者のニーズ、(3)EUの保護主義化への懸念、といった要素をあげていた。

 西ヨーロッパ諸国と日本の間では1970年代から1980年代にかけて、日本の輸出超過による経済摩擦が起き、日本製自動車の各国への輸出台数が制限されたりした。背景には、日米半導体協定にみられる日本のアメリカ偏重への不満がある。しかし単一市場の始動と前後して、トヨタがイギリスに進出するなど、日本の各メーカーが相次いでヨーロッパでの現地生産に入り、情況の変化がみられた。

 日本とEUが定期協議の場を設けて意思疎通につとめ、また産業界のパイプとなる日欧産業協力センターを設置して、誤解の増幅を未然に防ぐ努力をしていることも功を奏している。センターはブリュッセルと東京の双方に設けられ、進出や提携を望む企業の相談に応じているほか、企業の管理職や技術者の研修を相互に行っている。

[横山三四郎]

EUとアジア

EUは日本などとの2国間関係のみならず、世界経済のなかで突出した高い成長を続けるアジア諸国との多国間関係も重視する政策に転じた。1996年3月にバンコクで開催された第1回ASEM(アジア・ヨーロッパ首脳会議)はその現れだった。当時のドイツ首相コールが訪中してドイツ企業の合弁事業を後押しするなど、EU諸国の企業は日本やアメリカに負けじとアジア各地に積極的に進出する構えを見せた。EUと日本の企業が提携してアジア各国で合弁事業を展開するというこれまでにない形態の投資もみられるようになった。

 これは国際競争がグローバル化し、EU企業としても距離的には遠いが労働コストの安いアジアに目を向けざるを得なくなったためである。EUは域内市場を大きくし、その中で磨き合うことによって国際競争力をつけようと目論んだ。それが単一市場建設のねらいだったが、冷戦の終焉(しゅうえん)に伴う世界市場化が単一市場の形成を上回る勢いで進行して、EUの産業空洞化を引き起こし、失業率を高める一因になっている。EUの目算通りとはいかなかったが、もしヨーロッパ諸国がEUに結束していなければ、市場の地球規模化に対応することさえもできなかったといえる。

[横山三四郎]

『金丸輝男編著『EUとは何か』(1994・日本貿易振興会)』『島野卓爾・岡村堯・田中俊郎編著『EU入門 誕生から、政治・法律・経済まで』(2000・有斐閣)』『内田勝敏・清水貞俊編著『EU経済論』(2001・ミネルヴァ書房)』『庄司克宏著『EU法 基礎篇』(2003・岩波書店)』『藤井良広著『EUの知識』(日経文庫)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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