ドイツ連邦議会(下院)第1党の保守政党。自由主義市場経済を旗印とし、大企業や中間階層が支持基盤。1945年に結成され、49年から南部バイエルン州のみを地盤とする保守のキリスト教社会同盟(CSU)と下院内で統一会派を組む。2015年、メルケル首相が大量の難民受け入れを決断して以来、支持率を大きく下げたが、新型コロナウイルス流行下で指導力を発揮し、勢いを取り戻した。党員は40万5千人。(ベルリン共同)
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略称CDU(ツェーデーウー)。ドイツ連邦共和国において、革新派の国民政党である社会民主党と並んで二大政党の一翼を担う保守派の国民政党である。また、全ヨーロッパ的にみれば、イタリアのキリスト教民主党などとともに第二次世界大戦後のヨーロッパにおけるキリスト教民主主義の政治潮流を代表する政党でもある。ドイツでは、南ドイツのバイエルンにキリスト教社会同盟Christlich Soziale Union(略称CSU、ツェーエスウー)という同系列の姉妹政党があり、この両者が1947年2月以来今日に至るまで緊密な提携関係にあるため、通常この両党は、キリスト教民主同盟/社会同盟(CDU/CSU)という一体化した呼称でよばれる。また、かつてのドイツ民主共和国(東ドイツ)にも、ドイツ社会主義統一党の指導下に「反ファシズム民主主義政党の統一戦線」を構成する政党の一つとして「キリスト教民主同盟」があった。
歴史的にみれば、ドイツにおけるこの両党の起源は、プロテスタント優位の第二帝政の建国時に、ビスマルクに対抗するカトリック教徒の自己防衛の闘争が生み落とした中央党にある。カトリックは当時、ドイツ国内で人口の3分の1を占める宗教上の「大きな少数派」であった(なお、第二次世界大戦後の東西ドイツ分断により、西ドイツでは新旧両宗派の人口はほぼ拮抗(きっこう)する)。この中央党は、1933年7月にヒトラー国家の威圧のもとに「自発的解散」をするまで、ドイツの「最初の共和国」であったワイマール共和制の強力な支持勢力の一つでもあった。
しかし、第二次世界大戦後の西ドイツにおけるキリスト教民主同盟は、なおカトリック教会とその信徒を主たる基盤とするものの、同時に、すべてのキリスト教徒に支持を求める超宗派的な「国民政党」へと変貌(へんぼう)した。さらに最初は、キリスト教労働組合やカトリック左派(「社会」派)の影響下に「資本主義とマルクス主義」の双方を克服することを目標とする左寄りの「アーレン綱領」(1947年2月)を採択して重要産業の「社会化」に好意的な態度を示したり、現実に、1951年には社会民主党と協力して、石炭・鉄鋼産業における共同決定法を制定しさえしている。しかし、ナチズムとともにその他の保守政党、右翼政党まで一挙に信用を失ってしまっていた敗戦後のドイツでは、同党は、時とともに、社会民主党に対抗する保守派諸勢力の総結集を体現する政党になっていく。戦後の廃墟(はいきょ)のなかで当初いくつかの地域から別々に生まれた諸組織にまとまりがつけられ、最初の連邦党大会がゴスラーで開かれたのは1950年10月であるが、党指導部はK・アデナウアーを中心に早くから確立され、アデナウアーはすでにこの党大会の前に、連邦共和国の発足(1949年9月)とともに初代首相となり、一時は圧倒的な権威を確立して、1963年10月までその地位にとどまる(その後も1966年3月までは党首)。このアデナウアーの指導下に、同党は、対外的には西側陣営との提携を背景にして、北大西洋条約機構(NATO(ナトー))の枠内での再軍備と「力によるドイツ統一」の路線を、経済政策としては、1950年代の「経済の奇跡」の立役者となるL・エアハルト(1949年9月から1963年10月まで経済相、1963年10月から1966年12月まで首相)に代表される「社会的市場経済」を追求する。
こうして、同党は連邦共和国の発足以来1966年12月までの17年間、主として中間派の自由民主党と提携した「小連立」内閣の形で一貫して政権を維持し続ける。しかしその後は、1966年12月から1969年10月までの同党と社会民主党の二大政党による大連合内閣(首相K・キージンガー)を最後に、政権の座から転落したが、1982年10月以来、ふたたび自由民主党との連立によるH・コール政権を成立させた。首相コールは、1990年のドイツ統一ならびにその後の、ヨーロッパ通貨統合に向けて突進するヨーロッパ連合(EU)の事業の立役者として、第二次世界大戦後初期のアデナウアーの14年をしのぎ、かつてのビスマルクの19年の記録に迫る長期政権をつづけたが、1998年9月の総選挙で社会民主党に敗れ、退陣した。
このコール政権期に同党は新自由主義色を強め、幅広く国民諸階層を束ねる「国民政党」としての性格を希薄化させている。さらに、ドイツ統一により、プロテスタント地域であった東ドイツが加わったことで、社会政策的配慮を主として唱えてきたカトリック政治家の影響力も後退し、同党のアイデンティティには揺らぎがみられる。コールの後に党首となったW・ショイブレ(1998―2000)、A・メルケル(2000― )はともにプロテスタントであり、また後者は東ドイツ出身である。そうした党の変質もあって同党とキリスト教社会同盟の合計得票率は、1994年選挙以後、40%に達していないが、2005年選挙で僅差(きんさ)ながら第1党に返り咲き、社会民主党との大連立によるメルケル政権を発足させた。続く2009年選挙では得票率を減らしながらも第1党の座を守り、連立相手を自由民主党にかえてメルケルを首相として政権を維持している。党員数は2008年9月末で約53万人である(ちなみに1983年は73万5000人)。
同党の姉妹党であるキリスト教社会同盟は、ワイマール期のバイエルン人民党の系譜を引き、独自性の維持にこだわってキリスト教民主同盟には合流せず、バイエルン州でのみ展開するという形で民主同盟と住み分けを行い、連邦議会では民主同盟と統一会派を組んでいる。政治的傾向は民主同盟よりも保守色、権威主義色が強く、そのためもあり過去2回、民主・社会同盟の統一首相候補を出したが、いずれも芳しい結果を残せなかった。地元バイエルンでは圧倒的な強さを誇ってきたが、2008年の州議会選挙で過半数割れとなるなど、その強さにもやや陰りがみえてきている。2008年の党員数は16万3000人。
[山口 定・野田昌吾]
『野田昌吾著『ドイツ戦後政治経済秩序の形成』(1998・有斐閣)』▽『田口晃・土倉莞爾編著『キリスト教民主主義と西ヨーロッパ政治』(2008・木鐸社)』▽『網谷龍介他編『ヨーロッパのデモクラシー』(2009・ナカニシヤ出版)』
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カトリックの中央党を母胎とし,プロテスタントの政治勢力をも結集したドイツの政党。さまざまの階層を含むが,その中心は工業資本家と右派労働組合である。第二次世界大戦後の1945年9月ライン地方で結成され,漸次他の州に及び,占領地区ごとに統一組織を形成した。バイエルンではキリスト教社会同盟(CSU)と称するが,密接な関係を持つ。ドイツ連邦共和国成立により英米仏占領地区の組織は統合し,アデナウアーを党首に選任した。その綱領は,民主主義・連邦主義の堅持,キリスト教的家族の育成,労働者の経営参加,社会保障の徹底化,そして社会的市場経済の実現,西ヨーロッパの統合,などである。
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…ヨーロッパやラテン・アメリカのカトリック系の国々の多くには,キリスト教民主主義を唱える政党があり,それぞれ有力な政党の一つとなっている。ドイツ連邦共和国(旧,西ドイツ)のキリスト教民主同盟CDU(キリスト教民主・社会同盟CDU/CSU)がそうであり,同党は第2次大戦後長期にわたって政権の座にあり,1969年には社会民主党に奪われたものの,また82年にはそれを取り戻した。イタリアのキリスト教民主党Democrazia Cristianaも1945年以来90年代初めまで政権党であった。…
※「キリスト教民主同盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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