スペインのキリスト教神秘家、詩人、聖人。通常「十字架の聖ヨハネ(サン・フアン・デ・ラ・クルス)」の名で知られる。マドリードの北西アビラ県フォンティベロス出身。洗礼名はフアン・デ・イエペスJuan de Yepes。サラマンカ大学で学ぶ。1563年、21歳のときカルメル会に入って聖職の道を歩むが、自ら積極的に進めた同修道会刷新運動がもとで逮捕され、約8か月後に決死的な脱獄を果たし、執筆活動と宗教活動を続ける。神との一致という主題をみごとな隠喩(いんゆ)を駆使して甘美な恋愛詩に仕上げた代表作『聖霊頌歌(せいれいしょうか)』(1584)は、近代の詩人たちへの影響が大きい。また神学的知識を背景とした散文作品は、自らの詩の注解、神秘体験の分析的説明になっている。1585~87年アンダルシアの管区長となったが、91年12月14日、同地方ウベタの修道院で死去。
[清水憲男]
『芳賀徹訳「聖霊頌歌」(『世界名詩集大成14』所収・1962・平凡社)』▽『東京女子跣足カルメル会訳『霊の賛歌』(1963・ドン・ボスコ社)』▽『東京女子跣足カルメル会訳『十字架の聖ヨハネ小品集』(1960・ドン・ボスコ社)』▽『奥野一郎訳『カルメル山登攀』(1980・ドン・ボスコ社)』
スペインの笑劇作家(サイネテーロ)。マドリード出身、同地で没。笑劇(サイネテ)や軽喜歌劇(サルスエラ)など、純スペイン的小劇(ヘネロ・チコ)に活力を与えた功労者。外国劇の翻訳やバロック劇の改作を試みているうちに、幕間狂言(エントレメス)や笑劇など短い作品を書くようになり、その数は400を超える。『聖イシドロの野原』『おかんむりの栗売女(くりうりおんな)』『ともしびのファンダンゴ』などにみられるように、僧侶(そうりょ)、洒落者(しゃれもの)、伊達女(だておんな)、下町っ子など、さまざまな人物を登場させて民衆の生活を色鮮やかにとらえ、冗談、誇張、通俗語などを交えた生気のある用語でマドリードの風俗を風刺的に活写している。
[菅 愛子]
スペインの劇作家。ルエダのパーソpasoやセルバンテスのエントレメスentremésなどの流れをくむ短い笑劇サイネーテsaineteの作者として成功,約400の作品がある。当時の民衆の生活や風俗の描写にすぐれている点では,同時代人の画家ゴヤの作品と並び高く評価され,特に,18世紀後半のマドリードを知るうえでの資料としての価値が大きいとされるが,文学的な評価は高くない。このサイネーテは,新古典主義者たちからは卑俗であるとして強い非難をあびたが,新古典主義が〈黄金世紀〉の国民演劇を否定しフランス風の演劇を導入しようとしたのに対し,伝統的な民衆劇であったことに意味があり,また,それゆえに民衆の大きな支持を得たといえる。しかし,親フランス派の政権下にあってはフランスやイタリアなどの戯曲の翻訳に従事せざるをえなかった。
執筆者:乾 英一
メキシコの修道女で,南・北アメリカで最初の傑出した詩人と評される。8歳で最初の詩を書き,18歳でカルメル会に入り,以後24年間約4000冊の蔵書とさまざまな実験器具に囲まれての,修道女としてはきわめて特異な環境の中で神学や哲学に題材を得た作品を書いた。またその博識は,副王や司教からも助言を求められるほどであった。1693年に私財いっさいを売り払って貧民の救済に当て,最後は疫病患者の看護に従事しながら自らも罹病して死去した。
執筆者:小林 一宏
ブラジルの細菌学者。医者の家庭に生まれ,1892年リオ・デ・ジャネイロの医科大学を卒業し,96年から99年までパリ,パストゥール研究所などで学んだ。帰国当時リオには黄熱病が蔓延していた。1900年に同年開設された血清およびワクチンの実験的研究所(現在のO. クルス研究所)に入所し,02年所長。同時にリオの公衆衛生局局長に任命,リオの黄熱病撲滅に取り組み07年目的を達した。
執筆者:住田 育法
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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