改訂新版 世界大百科事典 「バロック劇」の意味・わかりやすい解説
バロック劇 (バロックげき)
〈バロック劇〉という言葉は演劇史で,また一般にもしばしば用いられる言葉であるが,それはある特定の明確な演劇上の一ジャンルを指すものではなく,一般に〈バロック〉的な演劇,あるいは〈バロック〉的様式,〈バロック〉的要素の認められる演劇を指して言ったものである。したがって,その時代や地域を特定することは必ずしも容易ではないが,演劇史では多くの場合に,16世紀後半から17世紀を最盛期とする,全西欧的なそのような演劇上の顕著な現象を,〈バロック劇〉として理解し評価することが行われている。
なお,バロック劇は,それに先立つルネサンス演劇(ルネサンス期の演劇)と明確に区分ができぬ部分を含むし,またそれはバロック劇の前史としても理解が必要であるので,ここではまずルネサンス演劇を関連のうえで概観することから説明を始めることとしたい。
ルネサンス演劇からバロック劇へ
イタリアでは15世紀後半に,人文学者たちによって古代劇(古典劇),特に古代ローマのセネカの悲劇とプラウトゥスの喜劇が再発見され,1486年にはその上演が試みられた。これによって正統的なドラマの概念が定着し,テキストを中心とした〈ことば〉の演劇が成立した。古代劇は,悲劇と喜劇のジャンルの明確な区別,そしてそれにともなう主人公の身分上の違い,また韻文が用いられることなど,さまざまな点で〈規則的〉な特徴を示しているが,そのような〈規則性〉はこの時代の人文学者たちに大きな影響を及ぼしている。セネカの悲劇では場所の統一が守られており,一方の喜劇では,前舞台が街頭をあらわし,その後方に登場人物の家々が並ぶというほぼ定まった形がとられているが,前1世紀のローマの建築家ウィトルウィウスの建築書の劇場の章は,その形を基本にした前舞台と後方に五つの扉のある劇場についてふれており,それはルネサンス期にビチェンツァのオリンピコ劇場(1584)などの設計の指針となった。やがて人文学者たち自身も戯曲を書き始め,セネカに倣った運命の残酷さを描くG.G.トリッシーノ(1478-1550)やジラルディ・チンツィオ(1504-74)の恐怖劇が生まれた。また,ローマ喜劇に範をとった喜劇にも,L.アリオスト,N.マキアベリ,ビビエーナ(B. ドビツィ)などの作品がある。同じころフランスでも,1552年にE.ジョデルが《クレオパトラ》を発表し,アレクサンドラン詩型を使った5幕形式の古典悲劇の先例となった。イギリスやスペインでは,古典悲劇に特有な時と場所の統一の制約はしだいに弱くなるものの,16世紀後半までは人文学者による悲劇が全ヨーロッパに見られた。そして,16世紀末から17世紀初めのイギリス・エリザベス朝演劇やスペイン演劇には,バロック的な特色が現れだす。
ルネサンス期の演劇を語る場合のもう一つの重要な点は,宮廷で支配者の権力を誇示するための大規模な祝祭が行われたことである。イタリアではトリオンフォtrionfoと呼ばれる祝祭行列が,例えば1477年フィレンツェ,90年ミラノなどで行われているが,そこでは神々の壮麗な衣装や,天体の機械仕掛け,想像上の動物などが現れ,本物の動物も使われている。イギリスの宮廷ではインタールードと呼ばれる滑稽な幕間劇や仮面劇も行われた。このような宮廷祝祭は,バレエやオペラの温床にもなるとともに,次の時代にはさらなる展開をみせてバロック的な演劇を開花させていくのである。
バロック劇の開花とその特質
ルネサンス期には大きくみれば,上述のように〈ことば〉を中心とする古典的ドラマの発見と定着が見られたわけであるが,バロック期になると,感性的な演劇手段が多用されるようになり,せりふの劇は後退する。イタリア,スペイン,オーストリア,南ドイツなど旧教国の宮廷でしばしば行われた祝祭劇は,バロック劇の典型的なもので,そこでは狭い〈舞台〉の概念は破壊され,舞台は全世界を表すという〈世界劇場〉の理念が導入された。台本は総譜にすぎなくなり,支配者が全世界に君臨することを示すために世界各地の動物が集められ,華麗なパレードや,花火や噴水まで使った仕掛けが用いられて,星辰まで含めた種々の寓意的人物も登場した。
このような感性的・寓意的手段を動員する豪華なバロック劇の背後には,仮象と実在というバロック期の二元論的な形而上学がある。地上の現実はうつろい易く,仮象にすぎない。壮大な建築物も一朝にして無に帰する。この世の事物が永続することはあり得ないという認識を最も端的に表すものが,新しい舞台機構を駆使した速やかな舞台の転換であった。舞台装置として書割りが考案されて速やかな変換が可能になり,絵画の遠近法が適用されて舞台は奥行を深め,また立体と錯覚させるような画法も発達して,これは仮象と実在の境界を消し去るようにも働いた。こうした舞台装置は,イタリアのS.セルリオ,ガリ・ビビエーナ(ビビエーナ家),イギリス人でイタリアで学んだI.ジョーンズなどの巨匠によって発達した。また16世紀末には同じくイタリアに発生したオペラによって,客席と舞台を仕切る幕が使用されるようになり,プロセニアム・アーチ(額縁舞台)をもつ現在の劇場形式も定着するようになった。舞台を現実と錯覚させるイリュージョンの演劇もこのバロック期に発するのである。
地上の存在が仮象にすぎぬとすれば,永生,すなわち真の実在は天国にしかない。この考え方を最もよく体現しているのは,反宗教改革運動の先頭を切った教団で行われた教団劇であり,とくにイエズス会の演劇は1550-1650年の間にひじょうな発展を遂げ,ビーダーマンJakob Biedermann(1578-1639),ポンターヌス,アバンチーニなどが活躍した。イエズス会演劇では残酷な場面をもつ殉教者劇も,布教の目的でしばしば上演された。傑作といわれるビーダーマンの《ツェノドクススCenodoxus》(1602)は,慢心の罪に陥ったパリの学者の魂を天使と神が奪いあうというファウスト的な物語で,教訓的な内容をもっている。これまで地上の事件のみを扱っていた水平的な舞台構造から,天国,地上,地獄という,垂直的な構造をもつ舞台が考えられているのもバロック舞台の特色であろう。ルネサンスのドラマは人間間の葛藤を扱ったものが多かったが,バロック劇の人物は,神と悪魔という両極の間におかれているのである。しかしそれは近代劇のような心理を備えた個性的な人物ではない。
17世紀のスペインには,カルデロン・デ・ラ・バルカの《人生は夢》(1635)や《大世界劇》に代表されるように,非常に多くのバロック的要素を含んだ演劇が生まれており,少し前の時代のローペ・デ・ベガも三統一の法則はほとんど守っていない。また,聖体祭に野外の山車(だし)の上で演じられたスペイン独特の宗教劇〈聖餐神秘劇〉(カルデロンはこの劇作の第一人者でもあった)もバロック的な劇形式と言ってよいだろう。
ドイツにはさきのビーダーマンのほかにも,のちに多くのバロック的な劇作家が現れるが,例えば古典の洗礼も受けたA.グリューフィウスの劇は,無常感・恒常への志向,残酷場面の使用などにおいて,バロック的な特色を示している。
もちろんいわゆるバロック時代にも,古典的といってよい戯曲をもたなかったわけではなく,フランスの古典悲劇,古典喜劇の完成期(古典主義)も時代的にはこのバロックの時代にあたっている。例えばJ.ラシーヌの悲劇に見るように,そこでは〈三統一〉の法則が守られ,舞台上の感性的要素(殺害場面,滑稽で下品な場面)は極力抑制されている。だがそこでも,テキストについてやや詳しい観察を加えるならば,多くの誇張された修辞にバロックを垣間見ることがある。また,モリエールの作品でも《町人貴族》のようなバレエ喜劇はバロック的といえよう。
啓蒙時代に入って,合理性と自然らしさを原則とする演劇が唱導され,特に18世紀に市民劇が登場すると,演劇におけるバロック的な要素は衰退した。しかし,20世紀に入って演劇を文学(〈ことば〉の演劇)から解放しようとする試みが始まると,ふたたびバロック的な要素が注目されるようになり,今日の残酷演劇や全体演劇といわれる試みには,バロック演劇の理念と共通の要素がかなり認められる。
執筆者:岩淵 達治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報