観想を旨とするキリスト教修道会の一つ。パレスチナのカルメル山を発祥の地とする。その伝説上の開祖は旧約の預言者エリヤと弟子のエリシャで、こうした旧約時代以来の伝統を引く隠修士たちが、古い時代からこの地に集まり住んでいたことが確認されている。13世紀になって正式な修道会として認可され、さらに托鉢(たくはつ)修道会の一つに数えられて、一般の司牧活動にも従事するようになった。イスラムによるパレスチナ占領に伴い、会は西ヨーロッパに移住し、イギリスはじめ各地に広まった。中世末期から会則の緩和に伴う規律の弛緩(しかん)をみたため、総長ヨハネス・ソレト(?―1471)は新たな会憲を定めるなど、会の改革に努力した。16世紀に入るとスペインで、テレサ・デ・ヘスス(1515―1582)、十字架のヨハネ(1542―1591)らによる改革運動が起こり、1593年改革派は跣足(せんそく)カルメル会として、緩和された会則を守る履足(りそく)派から独立するに至った。その後跣足派は、アフリカやアジアに向け宣教活動を行うなどして世界各地に広まり、日本にも1933年(昭和8)女子跣足カルメル会が、1952年(昭和27)には男子跣足カルメル会が渡来して、現在東京、金沢、京都などに、七つの女子修道院、五つの男子修道院を開いている。
カルメル会は共同生活を営みながら、祈りと黙想のなかで神の愛の実現を目ざすもので、1日2時間の黙想が義務づけられ、厳格な生活を営む。古来、聖母尊崇も盛んで、「カルメル山の聖母の修道会」ともよばれる。また前記のテレサ、ヨハネをはじめ、リジューのテレジアら多くの神秘家、神学者を輩出し、現在もキリスト教神秘思想における大きな潮流を形成している。
[鶴岡賀雄]
カトリック観想修道会の一つ。〈カルメル山の至聖乙女マリアの会Ordo Fratrum B.Mariae Virginis de Monte Carmelo〉とも呼ばれる。1155年カラブリアのベルトルドゥスがシナイのカルメル山のエリア洞窟の近くに隠修生活を始め,その後継者ブロカルドゥスは1209年エルサレム総大司教アルベルトゥスに修道規則を願い,教皇ホノリウス3世も26年これを認可した。教皇インノケンティウス4世は47年カルメル会を托鉢修道会となし,教皇エウゲニウス4世は1432年その修道規則を緩和した。52年にはヨハネス・ソレットが女子カルメル会を創立した。16世紀厳格な観想生活へのあこがれの中にアビラのテレサと十字架のヨハネの改革によって跣足カルメル会Ordo Fratrum Carmelitarum Discalceatorumが成立した。教皇クレメンス8世は1597年これを旧カルメル会と並んで独自の修道会と認可した。1933年跣足女子カルメル会は日本に渡来し,82年現在七つの独立した修道院と114人の修道女を有し,また52年跣足男子カルメル会も渡来し,活躍している。
執筆者:鈴木 宣明
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…第1回十字軍の勧請活動で知られる隠者ピエールPierre l’Hermiteのような著名なものもいる。13世紀以降,隠者も共同組織にくわえられることが多く,アウグスティヌス会,カルトゥジア会,カルメル会などが成立し,現在にまで存続する。【樺山 紘一】
[日本]
日本でも,世俗の生活を捨てたり,そこでの社会的・人間的な関係のもつ制約から逃れ,ときに山野に隠れ住む人を隠者といい,その行為を隠遁という。…
…13世紀初めの西ヨーロッパで革新的なキリスト教信仰生活をめざした新形式の修道会の総称。フランシスコ会,ドミニコ会,カルメル会,アウグスティヌス会などがこれに属する。これらの修道会は,中世初期以来のベネディクト会系の修道院が民衆から隔絶した場所に定住し,しかも有力信者からの寄進を受けて富裕化,世俗化したのに対して,その生活方式を根本的に異にし,個人・共同体ともに財産を所有せず信徒からの喜捨にたよる〈清貧〉の精神を重視した。…
※「カルメル会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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