カルデロン・デ・ラ・バルカ
かるでろんでらばるか
Pedro Calderón de la Barca
(1600―1681)
スペイン黄金時代の劇作家。マドリード生まれ。父方は代々サンタンデル地方の郷士。母方はフランドルの由緒ある貴族。1608~13年、イエズス会の帝室学院に学び、翌14年にはアルカラ・デ・エナーレス大学へ入学、おもに教会法を学ぶ。この間、10年には母親が他界、再婚した父ディエゴも5年後の15年に没する。父の財産分けをめぐり義母との間に訴訟問題が起こり、これに敗訴。その支払いのためカルデロンはかなり困窮する。21年、学業なかばにしてマドリードへ出る。この年、若者ディエゴ・デ・ベラスコを喧嘩(けんか)口論のすえ死に至らしめ、600ドゥカードで示談解決。一方このころから劇作家としての評判を徐々に高める。処女作は23年に上演され好評を博した『愛、名誉ならびに権力』。これ以後、81歳の高齢で没するまで、広範なモチーフを扱った120編余の戯曲を創作。ほかに聖体の秘蹟(ひせき)を賛美する一幕物「聖餐(せいさん)劇」を80編余残す。この聖餐劇のジャンルは、カルデロンにより最高度の完成をみたといわれる。34年、レティロ宮大劇場の杮落(こけらおと)しに参加、最新の機械仕掛けを縦横に駆使して、豪華絢爛(けんらん)な舞台絵巻を繰り広げ、王侯一族や貴顕紳士を瞠目(どうもく)させた。カルデロンの得意の絶頂期であった。51年9月18日、カルデロンは俗界に背を向け、叙階の秘蹟を受け、55年にはトレドの王室礼拝堂付司祭に任ぜられる。彼を手厚く庇護(ひご)したフェリペ4世(在位1621~65)が亡くなると、続くカルロス2世(在位1665~1700)の代には宮廷劇上演回数は減少の一途をたどり、齢(よわい)70に近い老作家は、日常の費(つい)えにも事欠いた。
愛、宗教、名誉を3本の柱として、おびただしい量の戯曲を生み出した黄金時代の作家たちのなかにあって、カルデロンは多様性、想像力の点ではローペ・デ・ベーガに及ばないが、叙情的表現の格調や、緻密(ちみつ)な構成力の面ではローペやティルソ・デ・モリーナをしのぐものがある。代表作には、宗教劇として『十字架への献身』(1636)、哲学的テーマの『人生は夢』(1635)、人物の取り違えや誤解が筋の混乱を引き起こすのを常とする「マントと剣」の劇では『二つ扉の家は守りがたし』(1629)、おもに貴族の名誉や体面意識を根底に置いた作品には『密(ひそ)かな侮辱には密かな復讐(ふくしゅう)を』(1635)、『名誉の医師』(1635)、同じく平民の名誉を扱ったものとして『サラメアの村長』(1636)などがよく知られる。
[岩根圀和]
『シャルル・V・オーブラン著、会田由他訳『スペイン演劇史』(白水社・文庫クセジュ)』▽『岩根圀和訳註『名誉の医師』(1981・大学書林)』
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カルデロン・デ・ラ・バルカ
Pedro Calderón de la Barca
生没年:1600-81
スペインの劇作家。ローペ・デ・ベガ,ティルソ・デ・モリーナと共に〈黄金世紀〉を代表する三大劇作家の一人で,後年ドイツ・ロマン派から高い評価を受けた。名家の出身で,イエズス会の学校とサラマンカ大学で神学を学んだ後,20歳ころから文学に転じたが,50歳のとき司祭の叙階を受けて,国王フェリペ4世の名誉司祭にもなった。国王に対する忠誠,カトリック教会に対する絶対的帰依,名誉あるいは体面感情の三つを基本的なテーマとして,120編におよぶ戯曲を書いた。これらの作品は,初め町なかの〈コラール〉と呼ばれる劇場で上演されたが,1640年に最新の設備を誇る王室劇場が完成すると,そのほとんどがここで上演された。歴史に題材を求め,王によって擁護される平民の名誉を描いた《サラメアの村長El alcalde de Zalamea》(1643),哲学的戯曲の最高作とみなされている《人生は夢La vida es sueño》(1635),宗教的な《すばらしい魔術師》(1637),夫婦間の貞操観念を扱った《己(おの)が名誉の医師》(1635)などが代表作である。またカルデロンは,聖体の秘跡に関するテーマを扱った一幕物の聖餐神秘劇の第一人者でもあった。これは聖体祭に野外で山車の上で演じられる寓意性の強いスペイン独特の宗教劇で,抽象的な概念が人格化されて現れることによってカトリックの理念を具体的な形で表現することに役立った。80編ほどの作品のうち,《バルタサールの晩餐》《大世界劇》などが有名である。スペイン国民演劇の創始者たるベガの作品が大衆的要素を重視したのに対し,カルデロンでは知的な哲学的要素が強調され,バロック期独特の〈奇知主義〉や〈誇飾主義〉による凝った文体や構成が特徴となっている。スペイン・バロックを代表した彼の死は〈黄金世紀〉の終焉を意味した。
執筆者:牛島 信明
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カルデロン・デ・ラ・バルカ
ローペ・デ・ベガと並ぶスペイン文学黄金世紀最大の劇作家。愛,名誉,宗教を三本柱にして120編のコメディア(戯曲)を残したが,代表作にはスペイン人の体面感情をテーマにした《サラメアの村長》や《名誉の医師》がある。しかし,カルデロンの名を不朽にしているのは世界演劇史上にさん然と輝く《人生は夢》で,ここでは,この世の夢幻性が,人間の宿命と自由意志との葛藤という神学的テーマを介して見事に舞台化されている。カルデロンはまた,《世界大劇場》のような,この上なく象徴的な宗教劇である〈聖体神秘劇〉の第一人者でもあった。
→関連項目クルス|ホフマンスタール
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カルデロン・デ・ラ・バルカ
Calderón de la Barca, Pedro
[生]1600.1.17. マドリード
[没]1681.5.25. マドリード
スペインの劇作家,宮廷詩人。ロペ・デ・ベガとともにスペイン古典演劇の確立者であり,ヨーロッパ演劇全般に及ぼした影響も大きい。サラマンカ大学で法律を学んだのち,いくつかの戦役に参加,その間にも劇作の筆をとった。『人生は夢』 La vida es sueño (1635) ,『サラメアの村長』 El alcalde de Zalamea (42) ,『世界の大演劇』 El gran teatro del mundo (45) をはじめとする戯曲,聖餐神秘劇,幕間劇など合せて約 400編があり,ほとんどが名誉,信仰,忠誠に愛をからませた作品で,その華麗荘重な様式はバロックの典型とされている。
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世界大百科事典(旧版)内のカルデロン・デ・ラ・バルカの言及
【スペイン演劇】より
…このローペ・デ・ベガに従って名声を得た作家にギリェン・デ・カストロGuillén de Castro(1569‐1631),ベレス・デ・ゲバラ,ルイス・デ・アラルコン,ティルソ・デ・モリーナなどがいる。ローペ・デ・ベガを国民演劇の創始者,〈黄金世紀〉前半を代表する作家とすれば,この国民演劇を完成し,〈黄金世紀〉後半を代表する作家が[カルデロン・デ・ラ・バルカ]である。彼はまた,聖餐神秘劇の第一人者でもあった。…
【スペイン文学】より
…なかでも《セビリャの色事師と石の招客》によって,漁色放蕩の伝説的人物ドン・フアンを演劇の中に定着させ,それ以降各国で生まれることになる無数のドン・フアン劇の創始者となったティルソ・デ・モリーナ,《疑わしき真実》により17世紀フランス古典劇に影響を与えたルイス・デ・アラルコンが重要である。そして〈黄金世紀〉の棹尾(とうび)を飾る巨人がカルデロン・デ・ラ・バルカで,バロック期特有の凝った文体や舞台構成を用いた哲学的な《人生は夢》と平民の名誉を描いた《サラメアの村長》はスペイン演劇の最高峰に位置するものである。
[小説]
16世紀前半に隆盛をきわめたのは《アマディス・デ・ガウラ》を頂点とする,中世の騎士道を理想化した騎士道物語であるが,こうした理想主義的傾向への反動として現れたのが,〈悪者〉の遍歴を通して社会悪を風刺する〈[悪者小説](ピカレスク)〉である。…
【バロック劇】より
…しかしそれは近代劇のような心理を備えた個性的な人物ではない。 17世紀のスペインには,[カルデロン・デ・ラ・バルカ]の《人生は夢》(1635)や《大世界劇》に代表されるように,非常に多くのバロック的要素を含んだ演劇が生まれており,少し前の時代のローペ・デ・ベガも三統一の法則はほとんど守っていない。また,聖体祭に野外の山車(だし)の上で演じられたスペイン独特の宗教劇〈聖餐神秘劇〉(カルデロンはこの劇作の第一人者でもあった)もバロック的な劇形式と言ってよいだろう。…
※「カルデロン・デ・ラ・バルカ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」