フィジー(英語表記)Fiji

翻訳|Fiji

精選版 日本国語大辞典 「フィジー」の意味・読み・例文・類語

フィジー

  1. ( Fiji ) フィジー諸島共和国の略。

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改訂新版 世界大百科事典 「フィジー」の意味・わかりやすい解説

フィジー
Fiji

基本情報
正式名称=フィジー諸島共和国Republic of Fiji 
面積=1万8272km2 
人口(2010)=85万人 
首都=スバSuva(日本との時差=+3時間) 
主要言語フィジー語ヒンディー語,英語 
通貨=フィジー・ドルFiji Dollar

南西太平洋の中央部,メラネシアの南東端に位置する国。322の島々からなり,総面積は四国より少し大きい。

おもな島のほとんどは火山性であり,多数の小さい島はサンゴ礁からなっている。ビティ・レブ島バヌア・レブ島だけで国の総面積の87%を占める。この2島の中央部には標高1000m前後の山々がそびえ,その東あるいは南側は降水量が多く熱帯性の森林地帯,そして西ないし北側は降水量が少なくてときには干ばつもある草原と疎林の多い地帯(サバンナ)と二分されている。山稜は海近くまで迫って急峻な勾配をみせている。サンゴ礁の小さい島々は海面からわずかな高みをもつだけの平たんな地形で,火山性の島とは対照的である。気候は一般に暑く湿気の多い熱帯性海洋気候であるが,南東貿易風によりかなりしのぎやすい。1年は,比較的高温でハリケーンの発生しやすい雨季(12~4月)と,涼しい乾季(5~11月)に分かれるが,18℃以下になったり30℃以上になることは少ない。

本来の住民であるフィジー人はソロモン諸島やニューギニアなどメラネシアの住民と形質上の類似を有するが,のちのポリネシア人(おもにトンガ人)との混血の影響も強く,とくにラウ諸島方面に著しい。インド人は1879年から1916年まで,年季契約でサトウキビ栽培のための労働者として多数やってきたが,その後も住み続ける者が多く,新たに移民してくる者も加わって現在にいたっている。フィジーの経済や教育が発達しているので,周辺の島嶼(とうしよ)国からきている者も多い。人口構成(1996年)を民族別にみると,フィジー人47.2%,インド人40.7%,その他12.1%となっている。1987年のクーデタ後,出国するインド人が多く,フィジー人と拮抗していた人口がこの10年でかなりの差となった。宗教では,フィジー人はキリスト教徒,インド人はヒンドゥー教徒が多い。このように二大民族をかかえた複合社会を形成していることがフィジーの特徴の一つである。
執筆者:

この地に人が住みついたのは,約8000年前,メラネシア系パプア人だといわれる。ビティ・レブ島から発掘された最古の土器類は,紀元前13世紀初めごろと推定される。その後,トンガ人が移住し,ポリネシア文化の影響を強く受けた。1643年ヨーロッパ人として初めてオランダタスマンが諸島の一部を発見し,1774年にはJ.クックが諸島を望見した。19世紀に入ると,ヨーロッパ商人によってサンダルウッド(白檀)の商品価値が注目された。当時,サコンバウ王がフィジーの大半を支配していたが,部族抗争が絶えまなく,1874年にイギリス領となった。翌年,イギリスは初代総督としてA.ゴードンを派遣した。総督は伝統的農産物コプラに加え,サトウキビのプランテーション化を図り,79年にインドから第1回労働者481人を入植させた。その後,約40年間で延べ入植者数は6万3000人に達し,現在にいたる砂糖生産国を築きあげた。イギリス連邦加盟の立憲君主国として独立を果たしたのは,1970年10月10日である。

南太平洋ではパプア・ニューギニアと並ぶ大国で,近隣島嶼国への政治的影響力も強く,ヨーロッパ先進国と島嶼諸国間の交渉ではつねにリーダー的役割を果たしている。国内政治では,土着フィジー人とインド系人とが国内を二分するなかで,独立以来,フィジー人政党の同盟党が政権を担当してきた。市街地の特例を除きインド系人の土地所有が禁止されたり,民族別に議員議席が固定化されるなど,土着フィジー人に有利な憲法下にあってインド系人の政治不満は充満していた。こうしたなかで,おもにインド系都市労働者層の支持を受け新たに結成された労働党が1987年4月の総選挙でインド系人政党の国民連合党と連合して同盟党に勝利し,政権を獲得した。これに危機を感じた軍はランブカSitiveni Rabukaに率いられてただちにクーデタを起こし,軍事政権を樹立した。その後,新憲法制定を条件に,前首相マラに旧体制のままの政権担当を命じて軍は身を引いた。この間87年末には,イギリス連邦から離脱,総督を大統領に指名して共和制へと移行,フィジー共和国となった。

 90年,フィジー人を優遇した新憲法が制定され,これに基づく92年の総選挙でランブカ率いるフィジー党が第1党になった。フィジー党が過半数には届かなかったため,ランブカは憲法見直しを約束してインド系の労働党の支持をとりつけ,新首相に就任した。97年,議会は90年憲法よりもかなり民主化された内容の憲法改正案を可決し,フィジーはイギリス連邦に復帰した。98年国名をフィジー諸島共和国と変更。

南太平洋の島嶼国では最も開発が進んでいる。イギリス植民地政府が推進した砂糖生産が基幹産業となり,国家経済を支えている。国民総生産(GNP)18億9500万ドル(1995),1人当りGNPは2440ドル(1995)と南太平洋諸国のなかではナウルに次いで高く,砂糖モノカルチャーできた経済政策はこれまでのところ成功してきたが,近年は国家財政の拡大の一方で生産量の伸び悩みに直面し,経済体質の変更を迫られている。そのため,漁業振興,観光開発に力点を置き,今や観光業収入が砂糖の輸出額を上まわるようになった。年間の外国人観光客の数は約32万人(1995),日本からも直行便が就航している。また,生活必需品の国内自給と南太平洋諸国への輸出をめざし,小規模工業の振興に積極的な外国資本誘致の努力をしている。南太平洋では数少ない地場産業の存在する優等生国であるが,流通・生産部門の大半を支えるインド人には,前述のように土地所有が許されず,産業振興を妨げる一因になっている。
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百科事典マイペディア 「フィジー」の意味・わかりやすい解説

フィジー

◎正式名称−フィジー共和国Republic of Fiji。◎面積−1万8333km2。◎人口−85万人(2010)。◎首都−スバSuva(17万人,2007)。◎住民−フィジー人57%,インド人38%など(2007)。◎宗教−フィジー人はキリスト教(おもにメソディスト),インド人はヒンドゥー教が多い。ほかにイスラム。◎言語−公用語は英語であるが,フィジー人はフィジー語,インド人はヒンディー語など。◎通貨−フィジー・ドルFiji Dollar。◎元首−大統領,ジオジ・コノウシ・コンロテJioji Konousi Konrote(2015年11月就任,任期5年)。◎首相−バイニマラマ Voreqe Bainimarama(2007年1月発足)。◎憲法−1998年7月発効。◎国会−二院制。上院(定員32,任命制,任期5年),下院(定員71,任期5年)。2006年5月下院選挙結果,統一フィジー党36,労働党31など。◎GDP−35億ドル(2008)。◎1人当りGNI−3300ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−38.4%(2003)。◎平均寿命−男67.0歳,女73.0歳(2013)。◎乳児死亡率−15‰(2010)。◎識字率−93.2%(2001)。    *    *南西太平洋,ニュージーランド北方に分布する島群からなる共和国。ビティ・レブバヌア・レブなど300余の島からなり,約100島が常住島。砂糖・コプラ・バナナ・金などを産する。 1643年タスマンが来航,1874年英国の保護下に入った。1970年10月イギリス連邦内の独立国となった。19世紀後半にサトウキビ農園の労働者として入植したインド人と,先住のフィジー人との対立が根強い。1987年の総選挙後に成立した連立内閣で,インド人が要職を占めたことから,フィジー人の不満を背景に軍がクーデタを起こし,イギリス連邦を脱退,共和制への移行を宣言した。1990年議員定数でフィジー人優位を定めた憲法が制定された。インド人はまだ土地所有を許されていない。1987年のクーデタ後,出国するインド人が多く,拮抗していた人口にかなりの差がついた。1997年イギリス連邦に復帰,1998年には民主化の方向で改正された新憲法が発効した。1998年国名をフィジー共和国からフィジー諸島共和国に変更。1999年5月新憲法下で初の下院選挙が実施された。2006年12月民族融和政策に反対する軍がクーデターを起こし,ガラセ首相は解任された。2011年2月,国名をフィジー諸島共和国からフィジー共和国に変更した。
→関連項目メラネシア

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「フィジー」の解説

フィジー
Fiji

ニュージーランドの北,南太平洋にあるメラネシアの島群。1643年にタスマンが北東部の諸島に来航,1774年にクック(ジェームズ)が南部の島に来航。1874年にイギリスの保護領となった。イギリスはプランテーションの開発のため,1879~1916年の間に6万人あまりのインド人を移住させた。太平洋戦争ではアメリカ軍の基地となった。1970年,イギリス連邦の一員として独立。人口の半数近くとなったインド系住民とフィジー系住民との間に対立が続き,87年の選挙でインド系の政党が政権に参加すると軍部によるクーデタが勃発した。その後,フィジー系住民が中心の政府が統治するようになったが,議席配分の変更を含む新憲法施行後,2000年,再び軍部によるクーデタが起こった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「フィジー」の解説

フィジー
Fiji

南太平洋西部,メラネシアの最東端の火山諸島と環礁からなる共和国。首都スバ
【略史】1643年オランダ人タスマンが上陸。1874年イギリスと協定を結びその保護領となる。その後,イギリス人による砂糖プランテーション経営のため,多くのインド人が労働者として連れてこられた。
【独立とその後】1970年イギリス連邦内の立憲君主国として独立,同年国際連合に加盟。政権を握るフィジー系住民と,経済を支配するインド系住民の人種対立が潜在する中,1987年の総選挙でインド系政権が誕生すると,フィジー系住民が反発してクーデタが起こり,政権を獲得して共和国を宣言し,イギリス連邦を離脱。クーデタ後,インド系住民の国外流出が続き,1990年フィジー人が下院の多数を占める新憲法が成立。1997年7月人種差別憲法の批判に応える形の改正憲法が可決され,10月イギリス連邦に復帰。

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デジタル大辞泉プラス 「フィジー」の解説

フィジー

《Fidji》フランスのファッションブランド、ギ・ラロッシュのフレグランス。1966年発表。

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世界大百科事典(旧版)内のフィジーの言及

【オセアニア】より

…メラネシア(ギリシア語で〈黒い島々〉の意。住民の皮膚の色が黒いことによる)は赤道以南のほぼ180゜の経線以西の島々をさし,ニューギニアから南東方向に伸びるビズマーク,ソロモン,サンタ・クルーズ,ニューヘブリデス(バヌアツ),ローヤルティ,ニューカレドニア,フィジーなどの諸島を含む。ポリネシア(同じく〈多数の島々〉の意)は,ほぼ180゜の経線以東の,北はハワイ,南西はニュージーランド,南東はイースター島を三つの頂点として描かれる,1辺およそ8000kmの巨大な三角形(ポリネシアン・トライアングルと呼びならわされている)に含まれる島々をさす。…

※「フィジー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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