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オランダ オランダ Holland; The Netherlands

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

オランダ
オランダ
Holland; The Netherlands

正式名称 オランダ王国 Koninkrijk der Nederlanden。面積 4万1543km2。人口 1676万7000(2012推計)。首都 アムステルダムヨーロッパ北西部の国。

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百科事典マイペディアの解説

オランダ

◎正式名称−ネーデルラント王国Koninkrijk der Nederlanden/Kingdom of The Netherlands。◎面積−4万1540km2(海外領土を除く)。
→関連項目アムステルダムオリンピック(1928年)環境税ベームステル干拓地

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世界大百科事典 第2版の解説

オランダ

正式名称=ネーデルラント王国Koninkrijk der Nederlanden,Kingdom of the Netherlands面積=4万0844km2人口(1995)=1545万人首都=アムステルダムAmsterdam(日本との時差=-8時間)主要言語=オランダ語通貨=グルデンGulden(英語でギルダーGuilder)ヨーロッパの北西部にある立憲君主国。日本の九州にほぼ等しい面積の小国で,人口密度は世界屈指の高さである。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

オランダ
おらんだ
Kingdom of the Netherlands英語
Koninkrijk der Nederlandenオランダ語

北西ヨーロッパにある立憲君主国。正称はオランダ王国。オランダ語での正式名称はネーデルラント王国Koninkrijk der Nederlandenで、ネーデルラントとは「低地の国」を意味し、一般的には英語ではネザーランズThe Netherlands、ドイツ語ではニーダーランデDie Niederlandeと称される。外国ではしばしばホラントHollandともよばれるが、これは、オランダ独立の中心となり、現在もオランダの心臓部を形成しているホラント地方に由来しており、日本語のオランダ(和蘭陀)はこの語がなまったものである。国土は北緯50度45分から53度32分、東経3度20分から7度12分にわたり、北と西は北海、東はドイツ、南はベルギーに接する。総面積は内陸水域を含めて4万1543平方キロメートル(陸地面積のみでは3万3873平方キロメートル)、人口1634万6000(2006推計)。人口密度は1平方キロメートル当り393人となり、日本(338人)より高く、ヨーロッパではモナコなどの小国を除いてもっとも人口稠密(ちゅうみつ)な国である。首都は憲法上アムステルダムとなっているが、政府はハーグにある。地方は12の州に分けられ、海外領土(自治領)としては、キュラソー(クラサオ)島、アルーバ島、ボネール島、セント・ユスタティウス島、サバ島、サン・マルタン島(南部)などがある。
 北海沿岸低地に位置し、国土の約27%が海面下にあるため、「世界は神によってつくられたが、オランダはオランダ人によってつくられた」と自負するごとく、オランダ人は絶えず水と戦い、築堤・干拓を行ってきた。また古くから商業活動が活発で、17世紀の黄金時代には世界貿易の中心地として繁栄した。現在でもEU(ヨーロッパ連合)の門戸ロッテルダム港を中心に、仲継貿易が盛んである。国際的には、ベルギー、ルクセンブルクとともにベネルックスを構成し、3国の一体感は強い。また西欧の一員として経済協力開発機構(OECD)、北大西洋条約機構(NATO(ナトー))などに加盟し、とくにEU内での調整的役割は重要である。生活水準は高いが、自然との戦いやカルビニズム(宗教改革者カルバンの神学から発展したプロテスタントの思想)を反映して、国民性は質素で実利的である。
 国旗は、上から赤、白、青の順に横縞(しま)をなす三色旗であり、独立戦争時のオラニエ公の軍旗に由来する。また国歌は「ヘット・ウィルヘルムス」Het Wilhelmusまたは「ウィルヘルムス・ファン・ナッソウエ」Wilhelmus van Nassouweとよばれ、1570年ごろオラニエ公ウィレムの信奉者によって作詞された。[長谷川孝治]

自然


地質・地形
国土の大部分は第四紀堆積(たいせき)物に覆われ、東部と南部に台地、西部に低地が広がる。また北海沿岸には砂丘が連続して天然の防波堤をなしている。全般に低平であり、最高点は南東端のドイツおよびベルギーとの国境地点で、わずか321メートルにすぎず、逆に最低点はロッテルダム北郊のポルダー(干拓地)で、海面下6.7メートルにも達する。
 オランダを地形区分すると、次の5地域となる。(1)南東端のレス台地―リンブルフ州南部では石灰岩丘陵の上を肥沃(ひよく)なレス(黄土)が覆い、地下には石炭を埋蔵する。(2)南部の洪積台地―ライン川などが更新世(洪積世)に形成した扇状地ないし三角州がその後隆起してできた高度50メートル前後の台地で、表層は砂質である。(3)東部の氷堆積丘陵―更新世のザーレ(リス)氷期にスカンジナビア氷床が現在のハールレムとナイメーヘンを結ぶ線にまで達し、ライン川の砂質堆積物を押し上げて形成した高度50~100メートルの丘陵で、とくに中部のベールウェ丘陵が典型である。氷河によるモレーン(堆石)を上にのせ、一部ではハイデや泥炭地となっている。(4)西部の沖積平野―後氷期の海進によって、北海がフローニンゲンからユトレヒト、ブレダを結ぶ線にまで湾入したが、ライン、マース、スケルデなどの諸河川の堆積作用によって粘土と泥炭からなる一大沖積平野となった地域。(5)海岸砂丘―北海沿岸では海進期に沿岸州が形成され、それが偏西風によって運ばれて海岸砂丘ができた。その後も新しい砂丘列が北海側にでき、砂丘間には泥炭地も生じた。砂丘の幅は最大5キロメートルに及び、その延長部は西フリジア諸島となっている。
 以上の地形区のうち、沖積平野の地域では海進や泥炭採掘が原因で土地が水面下に没したため、古くから干拓が行われてきた。すでに13世紀から堤防築造による小規模な干拓が始まっていたが、本格的なポルダー建設は16世紀後半からである。とくに17世紀前半には、オランダの経済的繁栄と築堤・風車排水技術の完成によって、アムステルダム北方の湖沼が集中的に干拓された。19世紀には蒸気ポンプの導入でハーレマー湖などの大規模干拓が可能となり、さらに20世紀に入ってからはゾイデル海計画によってウィーリンガー湖ポルダーをはじめとする四つの大ポルダーを建設している。[長谷川孝治]
気候
オランダは北海道より高緯度に位置しているが、北大西洋海流と偏西風の影響により、温和な西岸海洋性気候となっている。ユトレヒト近郊のデ・ビルト中央気象台では、1月平均気温2.8℃、7月平均気温17.4℃であって、年較差は15℃程度にすぎない。また年降水量は798.9ミリメートル(統計期間1971~2000)で多雨ではないが、四季を通じて降水があり、とくに秋から冬にかけては3日に2日の割合で降水をみる。国土が狭く、また低平であるため、国内における気候の地域差がきわめて小さいことも特色の一つである。[長谷川孝治]
生物相
かつてはオーク、カバなどの広葉樹が自然植生を構成していたが、現在それらはハイデおよびブナ、モミの人工林にとってかわられている。したがってわずかに残る自然植生は、アシ、スゲ、蘚苔(せんたい)類などの泥炭地植生である。このため動物相にもみるべきものはないが、ベールウェ丘陵の自然公園内には野生のクマ、タヌキなどが生息している。[長谷川孝治]

地誌


 オランダを地誌的に区分するならば、都市化の進んだ西部と、農村的なそれ以外の地域に大別できる。西部のノールト・ホラント、ザウト・ホラント、ユトレヒトの3州は、面積では全土のわずか20%にすぎないが、総人口の44%が集中し、とくにユトレヒト、アムステルダム、ハールレム、ライデン、ハーグ、ロッテルダムを結ぶ大都市地帯はホラント連接都市圏(ラントスタット・ホラント)とよばれる人口稠密(ちゅうみつ)地域である。しかし西部には海面下の沖積平野が広く横たわるため、ポルダーでの畑作や泥炭地での酪農のほか、海岸砂丘では花卉(かき)栽培、連接都市圏に囲まれた「緑の心臓部」では温室園芸も盛んである。またアムステルダム‐アイモイデン地区には造船、化学、食品、鉄鋼、ダイヤモンド研磨などの工業が、ロッテルダム‐ユーロポート地区には石油化学をはじめ食品、機械工業がそれぞれ立地し、オランダ最大の工業地帯を形成している。
 これに対し、農村的な残余の地域はさらに次の4地方に区分される。(1)ゼーラント州を中心とする南西部は、ライン川などが形成するデルタ地帯であり、粘土質土壌を利用した畑作が卓越するが、デルタ・プラン(海水の侵入を防ぐために河口に可動堰をつくる土木工事計画)による総合開発が進められた。(2)ノールト・ブラバント、リンブルフ両州からなる南部は、台地での混合農業と炭鉱に特色があったが、第二次世界大戦後はアイントホーフェンの電気機械を中心に工業化が進展している。カトリックおよびフラマン語が主流をなし、文化的にはベルギーとの親近性が強い。(3)東部のオーフェルアイセル、ヘルデルラント、フレボラントの3州は、氷河性丘陵での酪農、混合農業を中心とする田園地帯であり、エンスヘデを含むタウンテ地方で繊維工業が発達しているにすぎない。(4)フローニンゲン、フリースラント、ドレンテの北部3州は、かつては漁業と酪農を主産業としていたが、1960年の天然ガス発見以後、アルミ、化学などの工業が誘致された。一部ではフリジア語が使用される。[長谷川孝治]

歴史


 オランダは中世までネーデルラント(低地)地方の一部とみなされており、したがって独自の歴史を有するのは15世紀以降といえる。ローマ帝国の衰退後、オランダはカロリング帝国、東フランク王国、神聖ローマ帝国の各領域に順次組み入れられたが、実質的にはヘルデルラント、ブラバント公国、ホラント、フランドル伯領、ユトレヒト司教領などに分割統治されており、なかでもホラント伯が最強であった。こうした地方分立を克服し、民族国家としてのオランダが形成され始めたのは、14世紀末からのブルゴーニュ家の時代になってからであった。とくにフィリップ善良公は全国議会の招集や州総督の任命などの集権化を推進したが、その後はハプスブルク家の統治下に入り、絶対主義的な支配が行われた。フェリペ2世による重税と新教徒迫害に対して、オラニエ公ウィレムを指導者とする反乱が起こったのは1568年であり、これより八十年戦争とよばれる独立運動が展開された。1579年には北部7州によるユトレヒト同盟の結成、1581年にフェリペ廃位宣言、1609年には休戦条約の締結などを経て、1648年のウェストファリア条約によって、ネーデルラント連邦共和国の独立が正式に承認された。
 17世紀前半のオランダは、東インド会社による海外発展、干拓事業の推進、芸術・学問の開花によって黄金時代を創出し、首都アムステルダムは世界の貿易・金融の中心となった。その後イギリス・オランダ戦争での敗北、フランス軍の侵入によって共和国は弱体化し、ナポレオン時代にはフランスに占領された。ウィーン会議の結果、1815年ネーデルラント連合王国が成立したが、1830年にベルギーが分離独立し、現在の国土となった。第一次世界大戦では中立を維持したが、第二次世界大戦ではドイツに占領された。戦後はインドネシアをはじめとする植民地時代の海外領土がほとんど独立し、NATO(ナトー)、EUを軸とする西欧中心の政策を推進している。[長谷川孝治]

政治・外交


 1814年に制定されたオランダ王国憲法は、その後の議会制民主主義の発展に伴って数々の改正を経て今日に至っている。普通選挙、責任内閣制、信教・教育・言論・集会の自由など国民の権利を保障する立憲君主制が確立されている。[リヒテルズ直子]
国王
国王は憲法によって元首と定められ、憲法には王位継承権ならびに権限が規定されている。オラニエ・ナッサウ家の王子ウィレム1世の法的後継者を国王とし、現元首はウィレム・アレクサンダーWillem-Alexander(1967― 、在位2013~ )。王位継承権に性別による優先順位はない。
 憲法には国王は不可侵で、政府は国王および閣僚によって形成されると規定されているが、1848年以来政府行為の責任は閣僚が負い、国王は負わない。[リヒテルズ直子]
国家行政と地方行政
国家行政をとり行う内閣は次の過程を経て成立する。(1)国会第二院選挙後、国会両院(第一院、第二院)の議長ならびに各政党党首の助言に基づいて、国王が「情報提供者informateur」を指名。情報提供者は、通常最大票数を獲得した政党のベテラン政治家、票数が分散している場合には与党となる可能性のある複数政党から複数の政治家が就任する。情報提供者は連立の可能性について各政党から情報を収集し、政党間の連立交渉の仲介に当る。(2)連立交渉により次期政権に参加する与党政党が明らかになると、国王は「組閣者」を指名(組閣者は通常次期内閣総理大臣となる)。(3)組閣者は連立する与党政党間の交渉を通じて新内閣を組閣する。内閣を構成する大臣(閣僚)とそれを補佐するために必要に応じて設置される副大臣は国王が任命、閣僚会議の議長が内閣総理大臣(首相)である。
 オランダ本土の行政区域はフローニンゲン、フリースラント、ドレンテ、オーフェルアイセル、ヘルデルラント、ユトレヒト、ノールト(北)・ホラント、ザウト(南)・ホラント、ゼーラント、ノールト・ブラバント、リンブルフ、フレボラントの12州に分かれ、各州には立法機関である州議会、行政機関である州参事会がある。州知事は国王が任命する。州議会の構成と権限は憲法と州管理法が規定する。市町村にあたる地方自治体には立法機関である地方自治体議会、行政機関である地方自治体参事会がある。国王が任命する市長が両会の議長を務める。
 国土の約4分の1が海抜0メートル以下のポルダーとよばれる干拓地からなるオランダには、一般行政とは独立して国土の水位管理を目的とする治水行政委員会制度がある。この制度は中世から存在し、ダム、堤防、水門の建設と維持、水位管理と排水・給水管理、水質管理などを行うオランダでもっとも古い民主制度である。[リヒテルズ直子]
議会と選挙制度・政党
国会は二院制で第一院(75議席。日本の参議院に相当)と第二院(150議席。日本の衆議院に相当)からなる。第一院の議員は州議会議員による間接選挙で選ばれ、任期は4年。第二院の議員は全国区での完全な比例代表制による直接選挙で選ばれる。任期は4年だが議会解散により短縮され得る。地方議会(州議会および地方自治体議会)議員選挙も完全比例代表制による。各政党の候補者は党首以下順位を付けた候補者名簿に公示され、選挙人は政党名または候補者名のいずれかを選んで投票する(非拘束名簿式比例代表制)。
 国政選挙およびヨーロッパ連合(EU)議会選挙の選挙権、被選挙権はともに18歳以上のオランダ国籍をもつ者が有する。地方議会選挙の選挙権、被選挙権はこのほかに18歳以上のEU加盟国の国籍をもつ居住者およびEU加盟国の国籍をもたない居住者のうち選挙公示日までに最低5年間合法的に継続してオランダ国内に居住する18歳以上のすべての者が有する。
 選挙が完全比例代表制なので支持者が比較的少なく全国的に分散している小政党でも議席獲得の機会が大きい。とくに1970年代には市民運動に由来する多くの小政党が議席を獲得した。世界に前例のない斬新な法規や政策が実現した背景であるともいえる。その具体例として麻薬(ソフトドラッグ)や性産業に対する容認策、堕胎法、安楽死合法化、同性婚合法化などがあげられる。
 オランダの政党政治は4年ごとの議会選挙が始まった1888年以後発展してきた。当時から現在に至るまで議会の過半数を占める政党はなく、つねに複数政党の連立によって政権が樹立されてきた。政治のほぼ中心的立場を維持してきたのは政教分離を旨としたフランス革命に反対の立場をとり、オランダ建国の歴史をよりどころとして結成されたプロテスタントやカトリックのキリスト教保守主義に基づく政党で、これらの政党が時代ごとに自由主義勢力あるいは社会主義勢力と連立して、政策上のイデオロギーを左右に微妙に調整しながらオランダの政治を主導してきた。たとえば1929年の世界大恐慌から第二次世界大戦期にかけて自由主義派の自由民主国民党(VVD)と連立して不況対策をとり、終戦直後から1950年代にかけては社会主義派の労働党(PvdA)と連立して戦災からの復興に取り組み、天然ガスの発見と高度経済成長に助けられた1960年代にはふたたびVVDと連立して社会福祉の拡充を実現した。しかし1960年代後半から1980年代の初めにかけて世代間断絶と若者の反米意識、脱物質主義的価値意識が高揚し市民運動を基盤とするさまざまな小政党(大半が左翼進歩的)が新たに結成された。とくに1973年に労働党を中心に樹立された政権はオランダ政治史上最も進歩的であると同時に最も大所帯の連立政権でもあった。同じ時期にオランダ社会では著しい教会離れが進み、それまでオランダ政党政治の主流であったキリスト教諸政党の支持が減少した。その結果1980年にはそれまで長い伝統を誇っていたカトリック政党とプロテスタントの2政党がキリスト教民主連盟(CDA)として統合を余儀なくされたが、その後1982年から1994年までの12年間3期にわたって政権内の最大政党の位置を占めた。1980年代前半は戦後もっとも失業率が高かった時期にあたり、CDAは第1期、第2期にはVVDと連立して緊縮財政に取り組み不況脱出を実現、第3期には社会主義派のPvdAと連立した。1994年から2002年の時期にはそれまでキリスト教中道保守の伝統に基づいて左右両派と連立して政権の一部を担ってきたキリスト教政党のCDAが支持率後退によって政権から離脱、これにかわり非宗派的政党であるPvdA(社会主義=赤)、VVD(自由主義=青)、中道派知識人政党である民主66党(D66)の三者が連立して「紫政権」を樹立した珍しい時期である。経済好調に支えられ比較的安定した政治が続いたが、新世紀への転換期(1990年代末~2000年)ごろから新たな不況を迎え、加えて高齢化社会の進行と移民流入の圧力が経済と社会を圧迫し、移民(とくにイスラム系移民に対する)排斥的な世論が増大するなかで2002年CDAがふたたび政権に復活。VVDや移民排斥を訴える新右翼勢力などと連立して中道右派政権が樹立された。以来、CDAは4期にわたり交互に左右両派と連立して首相のバルケンエンデJan Peter Balkenende(1956― )のもとに第1党として政治を主導してきた。しかし、2010年6月9日の第二院選挙では、CDAは前回の41議席から21議席へと議席数をほぼ半減させて大敗。これに対し、右派では自由民主国民党(VVD)が22議席から32議席と躍進して第1党になり、同年10月、VVDのルッテMark Rutte(1967― )が首相に就任した。イスラム教徒を排斥する極右政党自由党(PVV)も前回9議席から倍以上の24議席を獲得して大勝利を収めた。一方、左翼革新勢力は労働党(PvdA)が前回の33議席より2議席少ない31議席だったものの、前回7議席だったグリーン左派党(GL)と前回3議席だった民主66党(D66)が、それぞれ10議席を獲得して健闘。全体として中道CDAの大幅な後退に比べて、保守自由主義勢力と革新社会主義勢力の両極に有権者の支持が分かれる傾向が顕著となった。[リヒテルズ直子]
司法・裁判所
裁判所は地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所の3段階に分かれている。2002年までは地方裁判所の下に区域裁判所が設けられていたが同年地方裁判所に併合された。ただしそれまで区域裁判所の裁判を担当していた区域裁判官はその後も継続している。
 地方裁判所では刑事の軽犯罪および小規模民事事件を区域裁判官が担当し、それ以外の民事事件と刑事の重犯罪を地方裁判官が担当する。いずれの場合も上告は高等裁判所に対して行われる。高等裁判所の判決に不服である場合には最高裁判所に対して判決棄却を上告できる。最高裁判所は下位の裁判所の審理手続きの正当性を検証する役割をもち、判決の有効性を棄却し再審を請求できるが自ら審理は行わない。
 このほか司法権に属する裁判機関として、おもに公務員問題、税金問題、社会保障問題など政府を相手取った争議を取り扱う中央控訴裁判所、おもに私企業における労働争議を取り扱う企業争議審理団がある。
 すべての司法執行機関を統括・監督し、国民の司法参加を保障する(住民に対して司法権を代弁し、法務大臣に対して司法権を代表して交渉にあたる)機関として司法評議会がある。陪審制度や裁判員制度はない。[リヒテルズ直子]
外交・防衛
中世以来、海上交通によってヨーロッパ地域内の重要な物資集散地であり、海運通商国として栄えたオランダは、伝統的に自由貿易に基づく多方向外交を展開してきた。それは、第二次世界大戦の初頭1940年にドイツ軍に侵攻されるまで中立国としての立場を保ったことにもあらわれている。
 第二次世界大戦後は国際連合をはじめとする国際協力組織が設立されるに伴い、西側諸国としてNATOに加わった。また、国際連合やEUの前身となったヨーロッパ石炭鉄鋼共同体、OECDなどの創立メンバーとしても積極的に外交政策に取り組んできた。
 1970年代以降、開発途上国に対する援助協力にも積極的に寄与してきた。政府開発援助(ODA)などの開発協力資金拠出は国民総所得に占める割合の0.8%以上に達し、国連の目標値0.7%を上回っている数少ない国の一つである。
 オランダには国際機関の本部が多く、政府所在地であるハーグとその周辺には80以上の国際機関(非政府組織も含む)が集まっている。代表的なものとして国際司法裁判所、常設仲裁裁判所、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷、国際刑事裁判所、ヨーロッパ警察、化学兵器禁止機関などがある。
 第二次世界大戦までは中立国だったが、戦後はNATOの創立メンバーとして西側自由主義諸国の安全保障同盟国となった。2008年の防衛費予算は約82億ユーロで国内総生産(GDP)の1.66%に相当する。憲法には徴兵制が規定されているが、冷戦体制崩壊以後1997年から徴兵は事実上行われておらず、すべての兵力は志願による雇用職員である。兵力は陸軍、海軍、空軍、軍事警察を合わせ約4万5000人(2009)。
 平和維持および安全保障のための海外軍事協力事業としてアフガニスタン国際安全保障援助軍(ISAF)、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争鎮圧ヨーロッパ連合部隊(EUFOR)、ソマリア・アタランタ欧州連合海軍(海上安全保障・海賊防止)、NATOイラク軍訓練軍(NTM-I)、ブルンジ安全保障・安定化部隊(SSR)、スーダン国連平和維持軍(UNMIS)などに兵力を派遣している。[リヒテルズ直子]

経済・産業


 オランダは国土が小さいにもかかわらず、国際通貨基金(IMF)の2008年のデータでGDPが世界第16位(8769億7000万ドル)、国民1人当りGDP(購買力平価ベース)は4万0431.27ドルで世界第9位の位置にある。経済は自由市場経済を特徴とし、ヨーロッパ地域の運輸業者として外国市場に対して多方向に開かれたオープン・エコノミー(開放経済)の性格をもつ。ヨーロッパ最大のロッテルダム港とヨーロッパ第4位のスキポール空港が「ヨーロッパの門戸」の役割を担い、それぞれ周辺には運輸や電気通信のインフラが充実、多国籍企業の数も多い。
 2008年の総輸入額は3359億1200万ユーロ、総輸出額は3704億8000万ユーロ。輸入はEU圏内から55.1%、EU圏外から44.9%とほぼ均衡しているが、輸出はEU圏内向けが76.3%にのぼる。貿易相手国の筆頭はドイツで、ベルギー、イギリス、フランス、イタリアなどが続く。おもな輸入品目は機械・運輸設備、化学製品、鉱物・燃料資源で、輸出品目の代表的なものとして花や観葉植物、球根がある。なかでも球根は年間40億個を輸出しており、そのうち6割がドイツ、イギリス、フランス、日本向けである。通貨は2002年よりユーロに切り替わった。
 オランダ西部の4大都市、アムステルダム、ハーグ、ロッテルダム、ユトレヒトは総称してラントスタットとよばれ、GDPの比率からみてヨーロッパ域内ではパリ、ロンドン、ミラノに次ぐ大きな経済都市地域にあたり、金融・商業サービスの環境が充実している。
 ヨーロッパの中心という恵まれた立地と安定した雇用市場、労働者の教育程度が高く多言語が使えるという環境は海外投資家にとって魅力であり、企業のみならず外国人労働者にも積極的に雇用機会を提供してきた。反面、外国との通商や投資に強く依存したオープン・エコノミーは世界経済の景気変動の影響を受けやすく、とりわけ1970年代の2度にわたるオイル・ショック、2001年の9.11アメリカ同時多発テロ事件前後からの世界的な不景気、2008年秋の世界同時金融危機などはオランダ経済に甚大な影響をもたらした。[リヒテルズ直子]
経済動向
オランダは中世にはヨーロッパ域内の物資集散地として、17世紀以後は世界を股にかける海洋貿易国として、18世紀後半から19世紀にかけてはアジアや南米地域などでの帝国主義的支配を通して経済発展をしてきた。第二次世界大戦後、それまでの繁栄を支えてきたインドネシアなどの植民地を失うことで経済状況が悪化するであろうという予想があったにもかかわらず、順調に戦災復興を果たした。その主な理由として、借款から贈与に切り替わったアメリカ合衆国のマーシャルプランの対象となっていたこと、インドネシアが1949年の独立以後も1957年までオランダとの経済的なつながりを維持したことがあげられる。1950年代には積極的な工業化策により農業国から脱皮して近代的な工業国となった。またベルギー、ルクセンブルグとともにベネルックス三国として経済共同体をつくり、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体、ヨーロッパ経済共同体の創立メンバーとして周辺諸国との経済の自由市場化に積極的に取り組んできた。
 1960年から1973年の第1次オイル・ショックまでは経済成長率平均6%、失業率平均2%を維持し、主として建設部門での労働力不足を補うためイタリア、スペイン、トルコ、モロッコなどから多数の移民労働者(出稼ぎ労働者)を迎え入れた。
 しかし1973年、1979年の2回にわたるオイル・ショックによって経済は悪化し、加えて1960~1970年代に整備された北欧並みといわれる充実した社会福祉制度が負担となり、オランダ病とよばれる経済低迷期を迎えた。国庫予算の赤字は増え、住宅価格が暴落し、失業率は1973年の3%から1984年の最悪時には12%にまで悪化した。こうした状況を打開するため1982年から1994年まで3期にわたって、中道保守派のキリスト教民主連盟(CDA)を中心にしたルベルス政権は失業手当の引き締め(削減)で就業を刺激し、公務員給与や政府補助金の大幅な削減、福祉の抑制、民間投資への刺激策などにより経済回復に取り組んだ。とくに1982年、政府・労働者・企業家(政労使)の3者によって実現された「ワッセナー合意Wassenaar Agreement」は、労働者側が賃金引き上げ要求を抑制し、そのかわりに企業家側がパートタイム就業を正規雇用として認めて国外市場での競争力の維持・強化をはかるとともに雇用機会の拡大を実現した。この経済回復策は徐々に効果をあらわし、世界的好況にも支えられて、1989年にはそれまでの10年間でもっとも高い経済成長率を達成した。
 1990年代はヨーロッパの主要国が軒並みマイナス成長や高い失業率に悩むなかで、オランダは好調な対ドイツ輸出、減税による国内消費の増大、設備投資の増大などで周辺諸国に比べて良好な経済状態を維持し、1990年代後半は政府見通しを上回る景気回復を遂げた。
 2001年ごろからの世界的な経済不況の影響で2002年の経済成長率は0.1%にまで落ち込むが、その後は再び回復、2007年の経済成長率は3.6%を達成した。失業率は1994年~1996年の平均6.47%から、2005年~2007年の平均3.9%へと向上。2008年第3四半期の失業率は3.82%とEU加盟国中でもっとも低かった。[リヒテルズ直子]
世界金融危機に対する対策
2008年の世界金融危機はオランダ経済にも大きな打撃を与え、2008年末にはマイナス成長に入り2009年の経済成長率はマイナス4%となった。しかし同年12月、オランダ経済政策分析局(CPB)は2010年の経済成長率を1.5%と上方修正した。2009年第3四半期の失業率は3.6%(OECD定義)とEU加盟国平均の7.9%を大きく下回り、先進諸国中もっとも低かった。
 失業抑制策として効を奏したのは、景気後退によって経営が一時的に悪化している企業に対し、社員の就業時間を期限付きで短縮することを認めた「パートタイム失業制度」である。この臨時制度は就業削減(部分失業)時間分に対して通常の失業手当と同様、給与減額分の7割を失業手当として国庫負担するというものである。原則として、雇用制度において既にパートタイムの正規就業化が実現していたことが、この制度の実施を可能にした。
 このほか、世界金融危機に対する対策として銀行・証券会社等の金融機関に200億ユーロの活性化資金を投入、主要銀行の一つであるABN=AMRO銀行を国有化し、中小企業への資金援助制度を導入した。さらに経済刺激策としてエコ住宅とエコカーへの買い替え奨励、道路・水路・公共施設などの公共インフラの建設・改修事業の強化が予定されている。また若年失業者への援助、再就職のための再研修事業にも国庫資金が投入されている。
 しかしながら、2010年初頭より顕在化してきたギリシアをはじめとする南欧諸国の経済不況のあおりを受け、オランダ経済は再び危機に直面することになった。失業率は依然として世界最低を維持しているものの、国債や財政赤字が急速に増大する傾向にある。2010年6月9日の第二院選挙に先立って、CPBは2015年までに当年度予算のおよそ20%に相当する290億ユーロの財政節減を目標として提示。選挙戦は節減方法をめぐって戦われた。その結果、いずれの政党が政権を担うことになっても、おもな政策として国民年金受給開始年齢の引き上げ、失業手当支給期間の短縮化などの社会保障削減策が行われるものと予想されている。[リヒテルズ直子]
雇用と労使関係
オランダの労働者給与は先進諸国のなかでも相対的に高い。被雇用者10人以上の規模をもつ第二次、第三次産業部門の企業に勤める労働者(フルタイム)1人当りの平均年間給与は3万8700ユーロ(2005)で、EU加盟国27か国中第6位にある。また、2008年における最低賃金は月当り1335ユーロに設定されており、EU域内ではルクセンブルグ、アイルランドなどについで高い。また、オランダにおける労働者1人当りの生産効率はEU加盟国中第6位に位置する。
 失業手当は最長38か月まで認められており、失業後2か月間は最終給与の75%、以後は70%が支給される。失業手当受給期間を越えて失業し、かつ最低限度の財産をもっていない者に支給される生活保護の額は2009年時点で月額615.16ユーロである。ただし失業状態が半年経過すると、給与が失業前のレベルを下回る職業でも受け入れなければならない。
 労働者の所得保障や労働条件が極めて高く保障されている背景には、前述のワッセナー合意を成し遂げたような政労使(政府・労働者・企業家)の合議的・協働的な意思決定モデルとしてのポルダーモデルがある。合議や協働のための協議は具体的には公的機関である社会経済評議会、民間団体の労働財団、市町村が関与する労働・所得評議会などで行われる。いずれも企業家団体と労働組合とが雇用制度および社会保障について対等の立場で話し合うための機関で、政治家は原則として両者の話し合いに立ち会い、労使間の協議の結果を制度化する役割を担う。
 労働組合は一般に個別企業の枠を超えて業種別に組織されており、個々の業種別組合ごとに労働時間、給与体系、職務評定規則、休暇・残業・労働条件・年金・解雇等についての規則が明記された団体労働協約が決められている。この協約は労働組合への参加の有無にかかわらず、その業界すべての労働者に適用される。[リヒテルズ直子]
主要産業部門概況
2008年のGDPに占めるオランダの産業部門別比率は第一次産業約2.4%、第二次産業約25.6%、第三次産業約69.6%である(このほか、おもに天然ガスからなる地下資源収入が2.4%を占める)。同年の就労職数の産業別構成比は第一次産業約3.0%、第二次産業約10.3%、第三次産業約87%であった。また、輸出額の産業別構成比は機械・輸送設備29%、化学製品17.8%、燃料類15.3%、食品11.4%、鉱物・原料9%、その他となっている。[リヒテルズ直子]
鉱工業・エネルギー
オランダには多国籍企業ロイヤル・ダッチ・シェルの本社があり、植民地時代から長く世界の油田開発、その他のエネルギー資源の開発に従事してきた。鉱業には天然ガス、石油、岩塩があるが、天然ガスを除きいずれも小規模である。1959年にフローニンゲン州で天然ガスが発見されて以来、オランダはEU域内の天然ガス生産量の約30%を占める第2の産出国となり、国庫の貴重な歳入源となっている。とくに2005年、2006年には天然ガスの価格が高騰し、生産量は増えていないがGDPに占める比率が上昇、全産業における天然ガスへの依存度が相対的に高まった。[リヒテルズ直子]
農林・水産・畜産業
農林・水産・畜産業が産業全体に占める割合はGDPの約2.4%、就業人口は3%と小さいが輸出に占める食品の割合は11.4%と大きい。農業の生産性は高度な集約化・機械化によりEU域内でも高く、農民の生活は総じて豊かである。とくに花、観葉植物、球根が重要な輸出品目である。そのほか温室栽培の野菜類、果物などの園芸作物の栽培が盛んである。また北海に面した立地により漁業、とくにニシン、シタビラメ、カキ、ムール貝などの魚介類の養殖と輸出が盛んである。伝統的に酪農国として牛乳やチーズをはじめとする乳製品生産も有名で、牛(乳牛269万頭、肉牛20万頭)のほか養豚1200万頭、養鶏9670万羽(2008統計)などの畜産業も盛んである。[リヒテルズ直子]
製造業
製造業部門では食品(飲料・嗜好品含む)加工業が就業人口比でもっとも大きな割合を占めている(14.6%)。主要な加工食品としてバター、マーガリンなどの食用油脂、ミルク、ヨーグルト、チーズなどの乳製品、食肉調整品、冷凍食品、コーヒーなどがあり、食品加工・日用品で有名な多国籍企業のユニリーバ、ビール製造のハイネケンの本拠地はオランダである。そのほか就業人口に占める割合が大きい分野として金属加工業10.8%、機械工業10.4%、出版・印刷業9.3%、電気・電子機器製造業9.0%、化学工業7.3%がある(2008)。電気・電子機器製造ではオランダに本社を置く多国籍企業のフィリップスの比重が大きい。[リヒテルズ直子]
金融業
オランダの経済活動の重要な部分をなしているものに銀行、投資、保険などの金融業がある。とくに、アムステルダムには1602年に設立された世界で最も古いといわれる証券取引所、アムステルダム証券取引所があり、オランダの主要企業25社で構成される株価指数アムステルダム為替指数(AEX)がオランダ経済の動向を知る重要な役割を果たしてきた。アムステルダム証券取引所はユーロ通貨への移行とともに2000年からパリ、ブリュッセルの証券取引所と合併し、ユーロネクストとしてヨーロッパの重要な証券取引所を構成している(2002年にはリスボン証券取引所、ロンドンのディリバブル取引所もユーロネクストに加入。2007年ユーロネクストはニューヨーク証券取引所を運営するNYSEグループと合併しNYSEユーロネクストとなった)。[リヒテルズ直子]
観光
2008年にオランダを訪れた外国人観光客数は約803万人で、うち78%がヨーロッパからであった。博物館・美術館、コンサートホールなどの文化施設が多く、コーヒーショップとよばれるソフトドラッグ販売店や合法的に認められた売春街区などがある首都アムステルダムは観光地として人気が高い。そのほかヨーロッパ最大港と多くの近代的新建造物をもつロッテルダム、政府や公的機関・国際機関が集まるハーグ、歴史的にも由緒のある大学町ユトレヒト、デルフト・ブルーの名で知られる陶器と画家フェルメールで名高いデルフト、オランダ最古の大学を擁するライデン、河口の三角州(デルタ)地帯を北海の高潮から守るためにつくられたゼーラントのデルタワーク、キンデルダイクの風車群、国土中央部の森林自然公園フェルウェ公園内にあるクロラー・ミュラー博物館などが観光地として名高い。[リヒテルズ直子]
運輸
オランダはヨーロッパの陸海空交通の要衝にあるため、運輸部門が早くから発達していた。ヨーロッパの最大の港をもつロッテルダムとスキポール空港があるアムステルダムの2都市は欧州の二大流通拠点として倉庫業、貨物積み替え、輸送業などが発達している。また高速道路網や一般道路、鉄道網が充実している。[リヒテルズ直子]

社会


 16世紀にスペインの圧政から解放と自治を目ざして独立戦争を起こしたオランダは、その建国の理念をローマ・カトリックの強権に対する宗教の自由においていた。このことは、宗教的・倫理的には思想の自由を、世俗的には市民参加による自治行政を熱心に擁護する国民性につながっている。同時にローマ・カトリックに対抗して独立運動の思想基盤をつくったプロテスタント(とくにカルバン派)の運動は、16世紀後半以降ヨーロッパ各地で迫害されていたプロテスタントの思想家や研究者を受け入れて彼らの研究や思想に場を提供してきた。それはやがてプロテスタント信仰を超えて啓蒙主義の発展を促し、オランダは近代思想の揺りかごの役割を果たすこととなった。こうした歴史的背景がカトリック、プロテスタント、自由主義者など宗教的・政治的な立場において過半数を占める多数派がなく、複数の少数者集団からなるマイノリティ社会の基礎を生んだ。とくに19世紀から20世紀にかけて、私立学校の自治権獲得を目ざして90年間にわたって続けられたプロテスタント系キリスト教徒を中心とした政治闘争「学校闘争」の過程ではさまざまな政党がつくられた。その結果オランダは縦割り社会あるいは柱状社会とよばれるマイノリティ集団ごとに縦に分かれた社会構成によって特徴づけられるようになった。この縦割り社会の系統はおもにローマ・カトリック信徒集団、プロテスタント各派の信徒集団、自由主義者および社会主義者の集団などに大きく分かれ、学校、病院、スポーツ・レクリエーション団体、労働組合、マスメディアなどすべてが各集団内で結束してつくられる傾向が強く、集団間では比較的交流の乏しい社会となった。
 第二次世界大戦後は閉鎖的なキリスト教保守主義に対する批判と経済成長や都市化の浸透により、若者を中心に教会離れが進み、縦割り社会の集団間の差異は徐々に希薄化してきている。また1960年代から1970年代にかけて労働力不足を補うために受け入れてきたヨーロッパ南部諸国やトルコ、モロッコなどからの多数の移民労働者が人口に占める比率が高くなり、伝統的な縦割り社会の構造に大きな変化が起きている。
 また1960年代から1970年代にかけては学生や知識人を中心に市民の政治参加が活発となり、性意識の変化や死生観についての議論、環境保護意識の高まりなどを通して機会均等意識が強まった。物質主義から脱物質主義への意識変容という文化シフトが起きた時代とも評される。社会政策面においては福祉制度の充実、教育・医療などの公共政策の抜本的な制度改革とそれへの国庫投資、開発途上国への援助が拡大している。幸福度についての国際比較調査では、成人・子供ともに先進国のなかでは上位にあり、自殺率も人口10万人当り8.3人(2007)と低い。
 1990年代までオランダはヨーロッパのなかでも移民受け入れに寛容で積極的な国といわれてきた。しかし2000年ころから高齢化社会の進展と高度福祉制度の限界などを背景に移民に対して排斥的な発言をする政治家への支持が増大し、異文化間の同化融合をめぐる議論がマスメディア上でも活発化してきている。[リヒテルズ直子]
住民・言語・宗教
2009年の人口は約1650万人。年齢別構成は20歳未満23.9%、20~40歳未満25.7%、40~65歳未満35.5%、65~80歳未満11.2%、80歳以上3.8%で、平均年齢は39.9歳。人口増加率は0.49%(2007)である。また全人口に対して移民(本人または両親の少なくとも一方が外国で生まれて現在オランダに暮らしている住民)が占める割合は19.9%にのぼる。そのうち非西洋移民(元オランダ領インド=現インドネシアと日本を除くアジア、アフリカ、ラテンアメリカ出身者)が占める割合は55%に及び、なかでもトルコ、モロッコ、スリナム、キュラソー、サン・マルタン、アルーバの出身者が多数を占める。移民の居住地はアムステルダム、ハーグ、ロッテルダム、ユトレヒトの4大都市など人口密度の高い西部地域に集中する傾向がある。これらの大都市においては新生児出生数に占める移民の割合が高く、都市部の若年人口に占める移民の割合が急速に増加している。
 国語はオランダ語で、ベルギーのフラマン語共同体の公用語と同一。ただし、オランダ北西部のフリースラント地方の言語フリジア語は、言語学上オランダ語とは別の言語とされ、現地の学校ではフリジア語学習の権利が認められている。教育機関の教授用語は原則としてオランダ語であるが、トルコ語、モロッコのアラビア語など移民の母語については生徒の学習権利が法的に認められている。
 周囲を諸外国に囲まれた小さな通商国として、伝統的に外国語習得熱や外国語教育への関心が高い。現在でも中等教育は英語、フランス語、ドイツ語が必修科目ないしは選択科目として教えられている。
 伝統的にはキリスト教国であるが、移民の流入により多数の宗教が共存している。2005年の統計では人口の44%にあたる約710万人のキリスト教徒がおり、そのうち約440万人がカトリック教徒、それ以外は各宗派のプロテスタントである。イスラム教徒は人口の6%弱にあたる約95万人。そのほか31万人~43万人がヒンズー教、ユダヤ教、仏教などの信者で、特定の宗教をもたない人々が48.4%に及ぶ。[リヒテルズ直子]
教育・科学技術
初等教育は満4歳から入学でき8年間、中等教育は進路によって4年制の職業訓練準備教育(VMBO)、5年制の高等職業専門教育準備教育(HAVO)、6年制の大学進学準備教育(VWO)の三つのコースに分かれる。ただし多くの中等教育校では、初めの2年間をブリッジクラスとして、隣接するコースの両方にまたがる教育を受けることができ、ここでの経過を見た後3種の進路コースのうちからいずれかに決まる。VMBOの卒業者は中等職業教育専門校(MBO)に進学するか、HAVOの4年目に編入する資格をもち、HAVOの卒業者は高等職業教育専門校(HBO)に進学するかVWOの5年目に編入する資格をもつ。VWOはラテン語、ギリシア語の習得を必須とするギムナジウムとそれを含まないアテネウムに分かれ、いずれの場合も卒業後は学士から修士までの一貫課程をもつ大学に進学できる。HBOの卒業資格は、対外的には学士と同等と認定されており、国内においても大学の修士課程への編入が認められている。
 大学をはじめ高等教育機関への進学の要件は、ディプロマといわれる上記の中等教育卒業資格の取得で、入学試験は行われない。ディプロマ取得の要件は50%が全国共通試験、50%が一定の共通の規則に基づいた中等教育機関内での積年の評価で、ディプロマ取得者はいつでも上級教育機関に入学できる。ただし、医・歯・獣医学など施設・人員・資金面ですべての入学希望者を受け入れられない学部や学科については、一定の公開された基準にしたがって論文審査・面接ないしはくじ引きで入学者を決める。中等教育を中途退学した者には全国に設置された地域教育センターが再教育によってディプロマを取るチャンスを提供している。
 オランダの教育機関は1917年に改正された憲法第23条に基づく「教育の自由」の原則によって高い自治が認められている。教育の自由は、学校設立の自由、教育理念の自由、教育方法の自由の3つからなり、協会・財団、宗教団体など民間の市民団体が一定数の生徒を集めることができれば学校を設立でき、独自の理念と方法によって学校教育活動ができる。国はそれらの学校に対して公的教育機関(公立校)の場合と同額の生徒1人当り教育費を支給する。また校舎等の施設および設備は公私立ともに市が支給しなければならない。教育方法の自由の原則により検定教科書制度や学級規模の規則はなく、学校運営を行政的に外から管理する教育委員会制度はない。その結果オランダでは民間団体が設立・運営している私立校の数が比較的多く、初等教育と中等教育で全体のほぼ7割を占めている。学区制はなく、生徒(保護者)は複数の特徴のある学校から選ぶ権利が認められている。
 義務教育は満5歳から16歳の誕生日を迎える学年の終了時までで、16歳~18歳は部分的な就学義務がある。中等教育終了までは無償である。中等教育終了以後の高等教育および職業訓練専門機関の授業料は学部や学科の別なく一律で、学生は本人が一定額以上の収入を得ていない限り、保護者の所得の多寡にかかわらず同額の奨学金(一定期間内に卒業資格を取れば返済免除)と公共交通機関の無料パスを受給でき、追加奨学金(低利返済義務つき)を申請できる。
 2005年のGDPに占める教育費支出の割合は5%でOECD加盟国平均の5.6%、EU加盟国平均の5.5%をやや下回り、先進国のなかでは教育支出が抑制的である。しかしオランダの生徒の学力はOECDの学習到達度調査(通称PISA)や国際数学・理科教育動向調査(通称TIMSS)などの国際比較調査では世界のトップクラスに属している。
 天然ガス以外に地下資源が少なくサービス産業に強く依存しているオランダでは、伝統的に人々の情報収集や科学振興を支える意識は高く、国は「知識経済」と称して高等教育機関や民間の企業や研究機関が行う革新的な科学技術研究を奨励している。また海運業で栄えた歴史や海水を堤防で囲って干拓地をつくってきた歴史、商業国としての伝統などを背景に船舶建造や水工土木技術、都市計画、経済学などの分野で世界的に高い評価を得ており、ノーベル賞受賞者も数多く輩出している。[リヒテルズ直子]
福祉制度
オランダの社会保障制度は周辺のフランスやドイツなどに比べても優れており、スウェーデンなど北欧諸国と並ぶ高度な制度といわれてきた。社会保障制度は主として国民保険、就労保険、福祉給付金に分けられる。国民保険には一般老齢年金(2010年時点では65歳から支給、67歳に引き上げの予定)、一般特別疾病治療費保険、一般遺族保険、一般子供手当(16歳未満の子供すべてに支給)がある。いずれもオランダに居住するすべての住民が対象となる。就労保険には労使双方が支払う所得別保険料によって賄われる就労能力別所得保険、失業保険、疾病保険、妊娠・出産保険(有給休暇16週間)がある。福祉給付金には、生活保護支給、若年障害者就労不能所得保障がある。
 子育て・教育に関しては、上記の一般子供手当で5歳児以下194.99ユーロ、6歳~11歳236.77ユーロ、12歳~14歳278.55ユーロ(2009年時点・1四半期あたり)が支給されるほか、17歳までの子供をもつ低所得者世帯には育児支援を目的とした課税控除措置がある。さらに就業者の託児については、賃金水準にしたがい低賃金層に手厚い託児支援義務が雇用者に対して適用される。保護者の学歴が低い場合や母国語がオランダ語でない子供に対しては学校に追加手当が支給される仕組みがある。身体・知的・精神的障害児は特殊学校または普通校への就学のいずれかを選択でき、普通校就学の場合には障害の程度や種類に応じて必要な職員や施設の保障のために追加手当が国から支給される。[リヒテルズ直子]
マスメディア
縦割り社会を反映して新聞や放送団体も、伝統的に宗派・非宗派のマイノリティ集団の系列でつくられており、現在でもこの系列はほぼ維持されている。主要な全国紙にデ・テレグラーフ、アルヘメーン・ダッハブラッド、デ・フォルクスクラント、NRCハンデルスブラッド、トラウなどがあり、最近では通勤時の公共交通機関などで配布されるタブロイド版の無料新聞にスピッツ、メトロ、ダッハなどがある。主要なオピニオン誌としてエルセフィール、HPデ・テイト、フレイ・ネーデルランド、デ・フルネ・アムステルダマーなどがある。
 放送は公共放送と企業のスポンサーによる民営放送とがある。オランダの公共放送は他国に例のない特徴的な運営で、ニュースや国家的な行事、スポーツなどは国営機関が制作・放映するが、それ以外の時間帯は会員制の民間NPO団体である放送協会が会員数の規模によって比例的に割り当てられる時間を利用して放送できる。資金は国庫補助金、会員が支払う会費、番組の間に放映される広告の収益金(STERとよばれる公営の広告管理団体によって管理される)からなる。[リヒテルズ直子]

文化


 オランダが海洋貿易によって繁栄した17世紀(とくに前半)は「黄金の世紀」とよばれ、オランダ史上文化活動がもっとも華やかに開花した時期である。また、16世紀後半の宗教改革期にカルバン派のプロテスタント信仰を基盤にスペインの支配に抵抗して独立運動を起こしたオランダは以後エラスムス、スピノザ、グロティウスなどの優れた哲学者や思想家を輩出するとともに諸外国からプロテスタントの思想家や科学者を多く受け入れて活動の場を与えた。印刷技術の発達に伴い早い時期から活発な出版活動が行われ、住民の識字率が高かったことでも知られる。[リヒテルズ直子]
芸術・文学
絵画の分野ではレンブラント、フェルメール、フランス・ハルス、ヴィンセント・ファン・ゴッホ(正しくはホッホ)、ピート・モンドリアン、M. C. エッシャーなどは国際的知名度が高い。
 芸術活動の発展と文化遺産の保存に対して国が積極的に支援している。その一例として全国に930か所にのぼる博物館・美術館がある。とくにアムステルダム(65か所)、ロッテルダム(32か所)、ハーグ(28か所)に集中している。なかでもアムステルダムにある国立博物館、ファン・ゴッホ美術館、アンネ・フランクの家、ロッテルダムのボイマンス・ファン・ブーニンゲン美術館、ハーグのマウリッツハイス美術館、アルンヘムのオープン・エア・ミュージアム、アペルドールンのヘット・ロー宮殿、オッテルローのクロラー・ミュラー美術館などが名高い。
 オランダ語文学はオランダ本国だけではなくベルギーのオランダ語圏、アンティル諸島、オランダ領インド時代のインドネシア、スリナム、南アフリカなどにみられるものを総称するが、オランダ語使用人口が少ないために世界的にはあまり知られていない。オランダ語によって表記された最古の文書は11世紀末にさかのぼる。中世にはフランス語や英語から翻訳された騎士文学、神への帰依を表す神秘主義文学、中世末からルネッサンス期にかけては修辞文学やヒューマニズム、宗教改革の影響を受けた文学、17世紀から19世紀半ばにかけてはフランス古典主義の影響を受けつつ啓蒙主義やロマン派文学、ナポレオン時代以降はナショナリズム文学が隆盛した。1860年にオランダ領インド支配を批判して書かれたムルタトゥリ(ムルタテューリ、本名エドワルド・ダウェス・デッケル)の『マックス・ハーヴェラー(ハーフェラール)』は、社会問題を内側から警告して書かれたリアリズム文学の代表作品で、当時多数の言語に翻訳された。その後共産主義の影響、世紀末文学、新古典主義や新ロマン主義の時代を経て、第二次世界大戦後は人々の教会離れと脱物質主義的な社会意識を反映して幅広いジャンルの多様な様式と題材の文学が隆盛した。外国語にもよく翻訳されている代表的な作家にハリー・ムリッシュ、ケース・ノーテボーム、ヘラ・ハーセなどがあげられる。
 演劇も文学同様に言語使用人口が少ないことによる障害があるがプロ、アマチュアの多くの劇団がある。オランダ独特の風刺寸劇であるカバレーは大衆芸能の典型である。舞台芸能としては伝統的にオペラやバレエ、最近ではミュージカルの人気が高い。音楽の歴史は古くアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、ロッテルダム・フィルハーモニック管弦楽団などが世界的に高い評価を受けている。[リヒテルズ直子]
スポーツ
もっとも人気の高いスポーツはサッカーで、アマチュアおよびプロの多数のチームがある。そのほかホッケー(フィールドホッケー)、アイススケート(とくにスピードスケートや凍結した運河などで行われる長距離スケート)、水泳、自転車競技、馬術、バレーボール、ハンドボール、テニス、ゴルフなどの人気が高い。[リヒテルズ直子]
ユネスコ世界遺産
オランダにあるユネスコ世界遺産指定の文化遺産(カッコ内は指定年)にはスホクランドとその周辺(1995)、アムステルダムの防塞線(1996)、キンデルダイクの風車群(1997)、クラサオ(キュラソー)島のウィレムスタット(1997)、Ir. D. F. ヴァウダヘマール(蒸気式揚水場。1998)、ベームスター干拓地(1999)、リートフェルトのシュレーダー邸(2000)、アムステルダムのジンフェルグラハト運河網(2010)、ロッテルダムのファン・ネレ工場(2014)、自然遺産としてワッデン海(2009。オランダ、ドイツ)がある。[リヒテルズ直子]
食文化
オランダの典型的な食事はジャガイモと野菜と肉から構成される。ほかに一般的な料理として肉の煮込み、スタムポットとよばれるジャガイモと野菜の煮つぶし、燻製ソーセージ、エルテン(グリーンピース)スープなどがある。軽食・スナックの典型例はパネンクック(パンケーキ)、ポッフェルチェ(タコ焼き大のパンケーキ)、ストロープワーフェル(シロップを挟んだワッフル)、塩漬け生ニシン、クロケット(コロッケのような揚げ物)など。大晦日にはオリーボールとよばれる球形のドーナツが欠かせない。[リヒテルズ直子]

日本との関係


 オランダと日本の交渉は、1600年(慶長5)豊後(ぶんご)(大分県)にオランダ船リーフデ号が漂着したときに始まるが、正式に国交が開けたのは1609年、オランダが徳川家康の通交許可朱印状を得て、平戸(ひらど)に商館を設けた年である。初代商館長ヤックス・スペックスは、前後10年間平戸に勤務し、平戸藩主をはじめ江戸の大官の信任を得た。また第7代商館長フランソワ・カロンは通算20年日本に滞在し、日本のことば、風習に通じ、両国の友好に貢献した。このころまではオランダ人は、平戸藩主だけではなく、江戸の大官とも個人的に親交を結び、幕府の閣老はポルトガル人の動静、オランダ人の貿易品調達方法、日本までの航路などにつき直接質問し、オランダ人も幕府の鎖国体制形成に際して、重要な情報を入手できた。なかでも宗門奉行井上筑後守政重(ちくごのかみまさしげ)や長崎代官で大貿易商人でもあった末次平蔵(すえつぐへいぞう)との親密な関係は、鎖国体制に向かう重大な変革期にオランダが以後も日本と関係を保つため、決定的な意味をもった。[永積洋子]
鎖国体制下の日蘭関係
1641年(寛永18)、鎖国体制の完成に伴い、オランダ商館が長崎出島に移転させられると、オランダ人の生活は一変した。商館長は毎年交代を命ぜられ、オランダ人と接触できるのは、オランダ語を通訳する通詞(つうじ)、出島の責任者である出島乙名(おとな)などきわめて限られた人々で、オランダ人は長崎の町を自由に歩くことも許されなかった。この単調な生活のなかで、オランダ人は日本に対する興味を失い、密貿易などで私腹を肥やすことにのみ精出す人も多くなった。
 幕府は、ポルトガルと国交を断絶した場合、オランダ人が中国産の生糸、絹織物、薬種などをポルトガル人と同様日本に十分供給できるかどうか調査していた。しかし鎖国体制の完成期にオランダの台湾貿易は最盛期を迎え、また中国船の海外渡航禁令が緩和され、さらに朝鮮、対馬(つしま)を経由して輸入される中国の産物も増加したので、中国商品の供給に不足はなかった。オランダ人によって江戸中期、8代将軍吉宗(よしむね)時代にはペルシアからウマが輸入されて、馬匹の品種改良に役だったし、時計、眼鏡、望遠鏡、各種銃器、ガラス器などヨーロッパの製品は、主として将軍、大名、大官などの注文により舶載された。
 オランダの書籍は、初期には医学書、動物、植物図譜など、見て楽しい本が輸入されたが、のちに蘭学(らんがく)が盛んになると、各種の辞典をはじめ、語学、医学、化学、天文学などの書物の輸入がしだいに増加し、蘭学の発展に寄与した。
 日蘭貿易の最大の問題は、オランダに日本から輸出する貿易品が、少量の樟脳(しょうのう)、漆器、陶器などのほかは、金、銀、銅に限られているということであった。金、純度の高い銀、銅の輸出禁止令が出されたこともあったが、いずれも短期間に終わった。そこで貿易の制限が試みられ、市法売買(1672~1685)による輸入品価格の引下げ、貿易額制限(1685以降)などが行われたが、消費物資を輸入し、貴金属が流出するという貿易の構造は、江戸時代を通じて変わらなかった。しかし、さまざまな貿易の制限の結果、生糸、木綿、砂糖などの生産が奨励され、輸入品にだけ頼ることは少なくなった。
 1641年(寛永18)以後、幕府はオランダに、ポルトガル人、スペイン人の動静につき報告するよう求めていたが、これはしだいに拡大して、広くヨーロッパ、アジア各地の情勢の報告となり、「風説書(ふうせつがき)」として、毎年オランダ船が入港した直後に提出された。風説書の内容は幕府の高官にしか伝えられなかったが、世界情勢の把握に役だった。幕末に国際関係が緊迫すると、風説書もしだいに外部に漏れ、幕府の対外政策に対する批判の根拠となった。
 商館の医師は、商館長の江戸参府に同行し、江戸の蘭学者と交流した。なかでもケンペル(ドイツ人)、ツンベルク(スウェーデン人)、シーボルト(ドイツ人)は優れた学者で、日本人に多大の影響を与え、また帰国後、日本紀行、日本誌、植物誌、動物誌を出版して、鎖国下の日本をヨーロッパに紹介した。
 1844年(弘化1)、オランダは軍艦パレンバン号で国王ウィレム2世の書簡を送り、長年の親交に感謝し、アヘン戦争を例にあげて、開国の必要を勧告したが、もちろん幕府はこれを謝絶した。ペリーの来航以後、国防のため近代的な海軍をもつ必要を痛感して、幕府はオランダに軍艦を注文し、また教師の派遣を依頼した。1855年(安政2)長崎に海軍伝習所が設立され、ライケン、カッテンディーケが教官として来日した。
 1858年(安政5)日蘭友好通商条約が調印され、商館長は弁務官となり、オランダ代表部を江戸に置き、長崎、箱館(はこだて)、神奈川、兵庫に領事を置くことが許された。しかし江戸の治安が安定しなかったため、代表部は1863年(文久3)にようやく移転した。1870年(明治3)に、外交の公用語としてそれまで用いられていたオランダ語が廃止されたことは、オランダ優位の時代の終末を象徴した。[永積洋子]
明治以降
開国後しばらくの間、土木、港湾、医学などの部門でオランダとの間に技術交流が盛んに行われたが、その後両国関係はおもに通商を中心に順調に発展することとなり第二次世界大戦中の外交断絶期間を除き、つねに友好的関係が維持されている。
 現在の経済交流をみると、日本とオランダの貿易は規模としてはそれほど大きなものではないが、輸出入とも年々ほぼ増加している。オランダから日本へのおもな輸出品目は電気機器、石油、石油調製品、チューリップなどの球根、集積回路、写真・映像処理機器、医療機器、切り花、豚肉などで、輸出額は3277億円、日本からのおもな輸入品目は印刷機、乗用車、コンピュータおよびその部品、テレビカメラ、データ処理機器などで、輸入額は1兆2600億円となっている(2009)。また、オランダに進出している日本企業は396社、日本に進出しているオランダ企業は82社となっている(2009)。
 文化交流は伝統的な関係を背景に発展し、1980年(昭和55)4月には日蘭文化協定が締結されている。400年以上の歴史を誇るライデン大学には日本学センターがあり、日本語および日本文化の研究が行われている。日本においては財団法人「日蘭学会」があり、日蘭関係を中心に研究活動を行っている。また技術交流の好例として、八郎潟(はちろうがた)や児島(こじま)湾の干拓におけるオランダの干拓技術の導入があげられる。2005年3月には、ライデン市にシーボルトハウスが開館した。動植物の標本(絶滅したとされるニホンオオカミの剥製(はくせい)は有名)、浮世絵、陶磁器、諸道具など、シーボルトが日本で収集したさまざまな分野のコレクションが展示、紹介されている。[明石美代子]
『●自然・地誌・文化 ▽木内信藏編『世界地理7 ヨーロッパ』(1977・朝倉書店) ▽米野正博訳『全訳世界の地理教科書シリーズ20 オランダ――その国土と人々』(1979・帝国書院) ▽M.J.M.van Hezik他編『オランダ』日本語版(1984・オランダ外務省) ▽山県洋著『オランダの近代建築』(1999・丸善) ▽河野実著『日本の中のオランダを歩く』(2000・彩流社) ▽クラース・ファン・ベルケル著、塚原東吾訳『オランダ科学史』(2000・朝倉書店) ▽ヤン・ライケン著、小林頼子訳著、池田みゆき訳『西洋職人図集――17世紀オランダの日常生活』(2001・八坂書房) ▽波勝一広著『ベネルクス夢幻――ベルギー・オランダ・ルクセンブルク紀行』(2002・三一書房) ▽国重正昭他著『チューリップ・ブック――イスラームからオランダへ、人々を魅了した花の文化史』(2002・八坂書房) ▽ツヴェタン・トドロフ著、塚本昌則訳『日常礼讃――フェルメールの時代のオランダ風俗画』(2002・白水社) ▽根本孝著『オランダあっちこっち』(2003・実業之日本社) ▽角橋佐智子・角橋徹也著『オランダにみるほんとうの豊かさ――熟年オランダ留学日記』(2003・せせらぎ出版) ▽清水誠著『現代オランダ語入門』(2004・大学書林) ▽田所辰之助・浜嵜良実・矢代真己編『世界の建築・街並みガイド(4) ドイツ・スイス・オランダ・ベルギー』(2004・エクスナレッジ) ▽ジュウ・ドゥ・ポゥム著『オランダの子供部屋』(2004・アシェット婦人画報社) ▽田辺雅文著、藤塚晴夫写真『オランダ――栄光の“17世紀”を行く』(2005・日経BP企画/日経BP出版センター) ▽小林頼子著『フェルメールの世界――17世紀オランダ風俗画家の軌跡』(NHKブックス) ▽E・フロマンタン著、高橋裕子訳『オランダ・ベルギー絵画紀行――昔日の巨匠たち』上下(岩波文庫)』
『●政治・経済・社会 ▽外務省欧亜局監修、在オランダ日本国大使館編『世界各国便覧叢書 オランダ王国』(1979・日本国際問題研究所) ▽The Kingdom of The Netherlands;Facts and Figures(適宜発行。The Ministry of Foreign Affairs) ▽外務省情報文化局監修『海外生活の手引15 西欧篇』(1979・世界の動き社) ▽日本貿易振興会『ジェトロ市場シリーズ199 オランダ』(1980) ▽下条美智彦著『ベネルクス三国の行政文化――オランダ・ベルギー・ルクセンブルク』(1998・早稲田大学出版部) ▽長坂寿久著『オランダモデル――制度疲労なき成熟社会』(2000・日本経済新聞社) ▽糀正勝著『オランダサッカー強さの秘密――トータル・フットボールの世界』(2000・三省堂) ▽水島治郎著『戦後オランダの政治構造――ネオ・コーポラティズムと所得政策』(2001・東京大学出版会) ▽蟹江憲史著『地球環境外交と国内政策――京都議定書をめぐるオランダの外交と政策』(2001・慶応義塾大学出版会) ▽田口一夫著『ニシンが築いた国オランダ――海の技術史を読む』(2002・成山堂書店) ▽オランダサッカー協会編著、田嶋幸三監修『オランダのサッカー選手育成プログラム――年齢別・ポジション別指導法と練習プログラム』(2003・大修館書店) ▽リヒテルズ直子著『オランダの教育――多様性が一人ひとりの子供を育てる』(2004・平凡社) ▽西川馨著『オランダ・ベルギーの図書館――独自の全国ネットワーク・システムを訪ねて』(2004・教育史料出版会) ▽富永英樹著『EU進出企業のオランダ投資税制ハンドブック』(2004・中央経済社) ▽P・G・H・カンプ、G・J・ティマーマン著、日本施設園芸協会監修『コンピュータによる温室環境の制御――オランダの環境制御法に学ぶ』(2004・誠文堂新光社) ▽ミルヤ・ファン・ティールホフ著、玉木俊明・山本大丙訳『近世貿易の誕生――オランダの「母なる貿易」』(2005・知泉書館) ▽リヒテルズ直子著『残業ゼロ授業料ゼロで豊かなオランダ』(2008・光文社) ▽J・ド・フリース、A・ファン・デァ・ワウデ著、大西吉之、杉浦未樹訳『最初の近代経済 オランダ経済の成功・失敗と持続力1500-1815』(2009・名古屋大学出版会) ▽玉木俊明著『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』(2009・講談社) ▽世界経済情報サービス(ワイス)編『ARCレポート――オランダ』各年版(紀伊国屋書店・J&Wインターナショナル) ▽経済産業省編『通商白書』各年版(ぎょうせい) ▽永積昭著『オランダ東インド会社』(講談社学術文庫)』
『●日本との関係 ▽岩生成一著『日本の歴史14 鎖国』(1966・中央公論社) ▽東京農大オランダ100の素顔編集委員会編『オランダ100の素顔――もうひとつのガイドブック』(2001・東京農業大学出版会) ▽田中強著、全国海外子女教育・国際理解教育研究協議会監修『青きポルダーの輝き――オランダ・ロッテルダム日本人学校便り』(2003・創友社) ▽西和夫著『長崎出島オランダ異国事情』(2004・角川書店) ▽西和夫著『長崎出島ルネサンス 復原オランダ商館』(2004・戎光祥出版) ▽東京大学史料編纂所編『オランダ商館長日記』(2005・東京大学出版会) ▽横山伊徳編『オランダ商館長の見た日本――ティツィング往復書翰集』(2005・吉川弘文館) ▽石田千尋著『日蘭貿易の構造と展開』(2009・吉川弘文館) ▽ドナルド・キーン著、芳賀徹訳『日本人の西洋発見』(中公文庫) ▽片桐一男著『江戸のオランダ人――カピタンの江戸参府』(中公新書) ▽永積洋子著『平戸オランダ商館日記』(講談社学術文庫)』

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世界大百科事典内のオランダの言及

【ホラント】より

…オランダ西部の地方で,北海に面する。語源は,ホルトラントHoltland(木の国)。…

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