1755-63年,北アメリカ大陸の領土支配をめぐって,英仏両国がそれぞれの植民地とインディアンをまきこんで戦った最後の英仏植民地戦争。ヨーロッパにおける七年戦争の北アメリカ大陸版といえる。フランス側は,セント・ローレンス川と五大湖からオハイオ川流域を経てミシシッピ川河口につながる毛皮交易路の確保と拡大をはかり,一方,イギリス側は,アレゲニー山脈を越えてオハイオ川流域へ農業地を拡大しようとした。比喩的にいえば,点(交易所)をつなぐ線(水路)で半弧状にイギリス植民地を包囲したフランス植民地と,これを面(農業地)の拡大によってのみこもうとしたイギリス勢力とが,オハイオ川流域で衝突して起こった重商主義戦争で,これにこの地方のインディアン諸部族がまきこまれた。
1749年イギリス政府はオハイオ会社にオハイオ川流域の土地50万エーカーを下付した。これに対しフランス勢力は,一連の砦を建設して守備を固めた。55年,進軍中のブラドック麾下(きか)のイギリス軍はフランス・インディアン連合軍の待伏せにあって大敗を喫し,戦争が始まった。戦争初期には,フランス・インディアン軍が優位に立ったが,58年以降,イギリス首相ピットの強力な指導下にイギリス軍は3方面から進撃してルイビュール,フロンテナク,デュケーンの3砦を陥れ,戦況は逆転した。さらに59年には主都ケベックを,60年にはモントリオールを占領し,フランス軍を降伏せしめた。英仏間の戦争は63年のパリ講和条約で終結し,カナダはイギリス領となり,フランス勢力は北アメリカ大陸から駆逐された。しかし,もう一方の戦争当事者であったインディアンは講和会議から除外され,戦争は続いた。63年5月オタワ族長ポンティアックのデトロイト攻撃を皮切りに,西部インディアン諸部族連合は,イギリス植民勢力に対し独立と解放の戦いを開始した。これをポンティアック戦争という。この戦いで英将アマーストは天然痘菌のついた毛布をインディアンに贈り,細菌兵器の草分けとなった。諸部族連合軍は緒戦には多くのイギリス軍砦を占領し優位に立ったが,63年秋には弾薬もつき,講和を結んで戦列を離れる部族が相ついだ。しかし散発的な抵抗と入植地襲撃は65年まで続いた。
執筆者:富田 虎男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…また34年にはメリーランド植民地が開かれた。イギリス人は,カナダからミシシッピ流域地方に進出していたフランス人と対立するにいたり,七年戦争の始まる1年前から,原住民諸部族と連合したフランス軍と交戦状態に入った(フレンチ・インディアン戦争)。そして1761年モントリオールを攻略し,七年戦争末のパリ条約において,カナダからフロリダに至る広大な領土を手に入れ,北アメリカのフランス勢力を完全に駆逐することに成功した。…
…本国同士の争いは直ちに植民地におけるそれに発展し,1713年にはアン女王戦争の結果のユトレヒト条約で,ニューファンドランド,ハドソン湾岸のほか,ノバ・スコシアを中心とするアカディア地方が正式にイギリス領と認められた。英仏植民地戦争の最大にして最後のものが,54年に始まったフレンチ・インディアン戦争である。ヨーロッパにおける七年戦争と呼応したこの北アメリカ大陸の戦闘でも,フランスは敗北を喫し,63年,フランスは東端の小さな二つの島およびミシシッピ川以西を除く北アメリカの全領土をイギリスに譲渡することになった。…
※「フレンチインディアン戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新