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イギリス女王(在位1553~58)。メアリー・チューダーともいう。ヘンリー8世とその最初の王妃キャサリンとの子。幼時すでにフランス王家とハプスブルク王家から婚約申し出を受けるという恵まれた地位にあったが、母后の離婚問題を契機として状況は一変、自身の嫡出でないことを認めさせられ、苦悩の生活を余儀なくされた。1544年王位継承の資格を回復したが、異母弟のエドワード6世治下ではしばしば亡命を意図するほどであった。エドワードの早世後ノーサンバーランド公の企てを排して即位(1553)、翌年反対を抑えてスペインの皇太子フェリペ(後の2世)と結婚。また父王の政策を否定して旧教会を復活、これに伴う迫害が「血なまぐさいメアリー」Bloody Maryとの悪名を残すこととなる。フェリペの滞英は1年にすぎなかったが、女王は夫に強いられてスペインの対フランス戦争に参加、結局カレーを奪われて憂悶(ゆうもん)のうちに死去した。
[植村雅彦]
スチュアート朝のイギリス女王(在位1689~94)。ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の長女として生まれ、プロテスタントの教育を受けて成長した。1677年オランダのオレンジ公ウィリアム(オラニエ公ウィレム)のもとに嫁し、イギリス、オランダ両国民の祝福を受けたが、父の即位後は夫と父の対立から微妙な立場にたたされた。88年の名誉革命に際して母国より招請を受け、89年権利宣言を受諾して、夫ウィリアム(3世)とともにイギリス史上では異例の共同王位についた。病弱で子に恵まれず、権利章典の規定によって夫の死(1702)後は妹アンが王位を継いだ。
[大久保桂子]
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…オラニエ公ウィレム,のちイギリスではオレンジ公ウィリアムとしても知られる。母はイギリス国王チャールズ1世の長女メアリーで,ウィレム自身のちにチャールズ1世の孫メアリー2世(ジェームズ2世の娘)と結婚(1677)しているので,イギリスのスチュアート王家とは姻戚関係にある。オランダは16世紀後半にスペインから独立したものの,たびたびフランス王ルイ14世の侵略をうけ,国内ではアムステルダムの商人層を支持基盤とするヨハン・デ・ウィト派と中産的生産者層を基盤とするオラニエ派が対抗していた。…
…その後ダンカンの血統が絶え,1371年ロバート2世が即位してスチュアート朝を開始。フランスとの提携が強まり,ジェームズ5世(在位1513‐42)は2人の王妃をフランスから迎え,その娘の女王メアリー(メアリー・スチュアート)はフランス王妃ともなった。 スチュアート王家,フランス勢力と結びついたローマ・カトリック教会に対する反抗として,1559年宗教改革戦争が始まり,J.ノックスの指導のもとにカルバン系の改革教会が樹立された(1560)。…
…1688‐89年にイギリスで起こった革命。国王ジェームズ2世を追放して,王の長女メアリーとその夫オランダ総督ウィレムを共同統治者として迎え,立憲君主制の基礎を固めた。 王政復古体制下の1670年代末期,チャールズ2世の弟でカトリック教徒のジェームズを王位継承から排除する法案の議会提出をめぐって政治危機は深刻となった。…
※「メアリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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