江戸後期の石門心学(せきもんしんがく)者。名は義道(よしみち)、通称久兵衛(きゅうべえ)、家号(やごう)亀屋で亀久とよばれる。号は道二。享保(きょうほう)10年8月15日、京都の織物職人の子に生まれる。幼年時代より宗教に関心をもち禅の修行を積んだが、中年になって布施松翁(ふせしょうおう)(1726―1784)の紹介で手島堵庵(てじまとあん)について心学を学ぶ。江戸に出て参前舎(さんぜんしゃ)を設立するなど、その布教活動は関東・関西の20か国に達した。彼の布教は一般庶民のみならず、時の老中松平定信(まつだいらさだのぶ)の幕閣メンバーであった播州(ばんしゅう)山崎藩主本多肥後守(ひごのかみ)忠可(ただよし)(1741―1795)をはじめとする諸藩主やその家中、旗本、御家人(ごけにん)などの武士にまで及んだ。また定信が設立した佃島(つくだじま)の人足寄場(にんそくよせば)の教導にあたるなど、石門心学普及の功労者となる。享和(きょうわ)3年6月11日没。
[今井 淳 2016年6月20日]
『柴田実編『日本思想大系42 石門心学』(1971・岩波書店)』▽『石川謙校訂『道二翁道話』(岩波文庫)』
(石川松太郎・天野晴子)
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江戸中期の石門心学者。名は義道,通称を亀屋久兵衛といい,道二は号。京都西陣の機屋に生まれ,40歳を過ぎて手島堵庵の門に入り,1779年(安永8)関東布教のため江戸へ下向し,参前舎を創設した。関東をはじめ五畿七道27ヵ国に遊説し,彼と彼の門下によって各地に設立された心学講舎は21舎に及ぶ。また播磨山崎藩主をはじめ,多くの大名に心学を説いている。松平定信が作った佃島人足寄場の教諭方にも就任した。《道二翁道話》がある。
執筆者:竹中 靖一
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1725.8.15~1803.6.11
江戸中・後期の心学者。名は義道,通称は亀屋久兵衛,道二は号。京都の機織の家に生まれ家業を継いだが,40歳をすぎて布施松翁(しょうおう)の勧めで手島堵庵(とあん)に入門,心学を修めた。のち堵庵の命により関東に下り,江戸に参前舎を設立。心学の普及に努め,庶民層にとどまらず松平定信ら大名にも信奉者を得,人足寄場(よせば)の教諭方にもなった。京都の上河淇水(うえかわきすい)の活動ともあいまって,石門心学の全盛期を築いた。
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…悪魂のしわざによって放蕩したことから勘当され,盗賊にまで落ちたが,善魂の勢力挽回によって教化されるという,黄表紙としては理屈くさい作品であるが,善悪の魂の争闘と,理太郎の行動とを二重の画面にあらわしたおもしろさで好評を博した。江戸における中沢道二の心学の流行をとり入れ,寛政改革の時代的風潮に応じようとした作者の機敏さもうかがわれる。この善玉悪玉の趣向は,以後小説にも演劇にも多く模倣された。…
…堵庵は門弟の統制にも意を用い,本心を発明したものに断書という印可状を与え,講舎の社中には社約を作らせた。 堵庵の門弟中沢道二は1779年(安永8)江戸へ下って参前舎をたてたが,播州山崎藩主本多忠可をはじめ10藩の藩主が道二の門に入った。町人の学問が上流武家へ浸透したのである。…
…江戸中期の心学者中沢道二の道話を編集したもの。6編15巻。…
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