人間を一種の機械として考えようとする思想。古くはギリシアの哲学者エピクロスにさかのぼることができる。彼は万物は人間の身体はもちろん,魂をも含めて,いっさい,原子とその運動に由来すると考えた。近世において,強く機械論的な傾向を示したのがデカルトである。彼は人間の身体は精巧な自動機械であるとみなした。しかし,デカルトは心身二元論の立場をとったため,心と身体との内的な結びつきを否定せざるをえず,結局,心と身体の両面を持つ人間全体を機械とみなすことはできなかった。心と身体を接触させる場所としてデカルトは脳髄の中央にある松果腺を擬したが,生理学的にみて不当である。しかし,この心身の結合のしくみをめぐって,デカルトによって提起された哲学問題は,〈心身問題〉と呼ばれて,人間機械論の中心にかかわる問題として現在に至っている。
18世紀に至り,フランスの医師ラ・メトリーは徹底した唯物論の立場をとって《人間機械論》(1748)という著作を著し,人間を,精神をも含めて,完全に機械であるとする議論を展開した。彼はここで当時の自然科学,とくに医学の知識を活用して,精神現象をもすべて機械的な物質現象に還元することを試みた。しかし,往時はまだ大脳生理学的知見は乏しく,また〈機械〉のモデルとなったものもせいぜい,時計や当時はやった自動人形程度のものであり,人間の精神現象に関する機械論的解釈はかなり抽象的,空想的であり,十分科学的なものとはいいがたいものであった。しかし,当時一般的であったキリスト教的人間観に対して与えた衝撃は大きく,啓蒙期哲学の一つのきわだった流れであった機械論的唯物論を主導することとなった。20世紀,とくにその後半に至り,一方で,分子生物学や大脳生理学の急速な進展により,人間のさまざまな機能,なかんずく精神現象の物質的基盤が明らかになり,また他方,電子工学の発展により,これらの人間的機能が電子工学的にモデル化されるに至り,人間機械論は格段に具体性を帯びることになった。とくに,20世紀中葉,ウィーナーによるサイバネティックスという新しい学問領域の提唱以降,人間を一種の有限自動機械(ファイナイト・オートマトン)と見る見方が広く定着するに至った。
人間機械論は哲学や思想万般に対して,多くの難問を提起することになる。問題の中核は,精神現象を物質現象に完全に還元することができるか否かという点にある。ところで現代科学が精神を物質現象に還元することに大きな成功を収めつつあることは事実である。感覚,知覚などが生ずる生理的しくみは解明されつつあるし,記憶や計算という精神作業もほぼ物質的,機械的作業であると見てさしつかえない。感情に関してもそれを引き起こす物質の分子構造が決定されつつある。この趨勢はやがてすべての精神現象を物質現象化することに成功するということを予想させるように思われる。しかし,哲学の側から見て,この還元を決定的に阻むいくつかの理由が提出される。第1に,精神は非空間的であるがゆえに,空間性を本質とする物質に還元することは本来不可能なはずであるという議論がある。しかし,精神の非空間性という主張はその意味がかなりあいまいであるという反論もある。第2に,精神と物質との間に措定される因果関係の身分が疑わしいとされる。たとえば,大脳過程を原因とし,その結果,ある知覚が生ずるというとき,その因果関係を保証する厳密な科学的法則は存在しない。むしろこの両者は同時に並行的に起こる単なる随伴現象であるという主張も可能である。第3に,精神は当人のみがそれを知りうる私的なものであり,それに対し,物質は公共的なものである。以上の諸点が精神を物質に還元することを阻むおもな理由とされる。しかし,この三つの論点にはそれぞれ,概念的な混乱があるという非難もあり,議論が分かれる。また,人間は自由意志をもつがゆえに機械ではない,という主張も有力なものとされるが,自由意志をもつということの実質的な意味が当人の自覚以外において明確ではなく,この議論も決定的なものではない。要するに,人間が機械であるか否かという問題はこの2語の定義いかんの問題であり,そして,この2語をなじませて用いるような定義の浸透が現在のわれわれの言語生活においてすでに,自然に進行しているようにも見える。人間機械論は倫理,法,社会に関する在来の考え方にも大きなインパクトを与えることになる。社会を人間-機械混生系と考え,そこにおける一種の調整技術として倫理や法を考える見方が人間機械論に付随することになろう。
→機械論
執筆者:坂本 百大
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
人間を一種の機械であるとする立場。普通、人間は心と身体をもち、このうち身体は生理的・物理的分析を受け入れると考えられる。しかし心の働き、とくに栄養をとったり感覚したりといった比較的自動的と思われる働きではなく、ものを考えるなどのいわゆる理性的働きは、一見して、物理学的に分析し尽くされぬものを含むと思われる。実際デカルトは、そのような働きは身体とは別の心的実体に属し、物理的分析を受け付けぬものとした。反面、彼は心のそのような働き以外は物理的解明を許すものと考えたため、人間以外の獣は一種の自動機械であると主張した。デカルトのこの動物機械論を徹底させ、あらゆる心の働きが物理的に分析できる、すなわち人間のあらゆる機能は物理的に分析できると主張したのがラ・メトリの『人間機械論』(1748)であった。このように人間を一種の自動機械とする考え方は、機械自体が発展し、サイバネティックス(コンピュータや通信、自動制御理論などの物理・数学・工学系の理論と人間の神経系統に関する理論とを統一的に処理しようとする理論体系)が登場するに及んで、近年説得力を強めてきている。
このように人間を機械とのアナロジーでとらえようとする立場は、厳密にいえば、人間が物理的原理で分析し尽くせるという立場(いわゆる唯物論)と同じものではない。なぜなら、物理的構造が解明され、機能が物理的に描写されたとしても、それが「なんの目的の」機械であるかわかったことにはならないからである。それゆえ、単なる唯物論と区別して人間機械論を現代において定義するとすれば、ある種の物理的システムをモデルとして人間を理解する立場であるといえよう。
そのように定義するとすれば、人間機械論には克服すべき問題が大別して二つあると思われる。その一つは、人間が自分に対してもつ「かけがえなさ」を説明できるかということである。悩み、絶望し、己の死を死ぬところの、まさに他人とは入れ替わることのできぬこの「かけがえない」自分は、機械的モデルを示されて納得できるであろうか。たとえば、人生に対する絶望は、己のかけがえなさがなければ生じない。今ここに生きる自分がなければ「歴史」も生じない。そのような問いに対して人間機械論は解答を用意できるだろうか。いま一つの問いは、人間を機械でシミュレートする場合、その機械はなんの目的でつくられたものかということである。換言すれば、人間機械論は人生の目的が何かに対する答えを与えられるかということである。
このように「自分」と「価値」の問題は人間機械論にとってこれからの課題となるであろう。
[伊藤笏康]
『ド・ラ・メトリ著、杉捷夫訳『人間機械論』(岩波文庫)』▽『ウィーナー著、鎮目恭夫・池原止戈夫訳『人間機械論』(1979・みすず書房)』▽『坂本百大著『人間機械論の哲学』(1980・勁草書房)』
フランスの医師・哲学者ラ・メトリの主著。1748年刊(1747年末にライデンで極少部数が刊行されたが、一般的には1748年刊行のベルリン版が流布本とされている)。「人間は機械である。また全世界には種々雑多に様態化された一つの物質が存在するのみである」。これが本書の基本的主張である。人間の本質の探究の確実な案内者は「観察と経験」であり、「人間と動物の内臓を開いてみる」なら、両者の区別は程度の差にすぎないことがわかる。したがって人間は動物つまり「感覚をもつ物質」であり、また魂のすべての能力は脳の組織に依存するから、思考は「物質の一属性」にほかならない。さらに「物質はひとりでに動くもの」であるから、デカルトのいうように動物が機械であるなら、人間は「自ら発条(はつじょう)を巻く機械」である。人間を動物から区別するものは、脳の微細な構造に生来する想像力とことばの使用に基づく教育である。つまり「人間とは経験を積んだ機械である」とした。
このように自然のあらゆる運動が物質の各部分のもつ原動力の活動によって生ずるなら、もはや人間の霊魂と同様に神も不用であろう。本書は物質それ自体に「運動の原理」を認め、生命のある物体に「感覚能力」を付与することによって唯物論を一段と発展させ、ドルバックやディドロに大きな影響を及ぼした。
[坂井昭宏]
『杉捷夫訳『人間機械論』(岩波文庫)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…こうした各種の生命観は,実験や観察に方向づけを与える一方,生命観のほうも新しい知見によって変化をとげていった。18世紀なかごろにラ・メトリーが,デカルトの動物機械論を急進的に延長してとなえた《人間機械論》は,生命を物質原理に帰着させようとする主張であったし,A.vonハラーの《人体生理学要綱》(1756‐66)は,被刺激性という特有の原理によって,生理現象を統一してとらえようとした。こうして知識が重なり,多面化するにつれて,生命の包括概念が求められ,また生命現象を対象とする独自の学の必要が感じられて,19世紀の夜明けとともに〈生命の学〉としての生物学が提唱されたことは必然の流れであり,その後の方向を予告するものでもあった。…
…ただデカルトは人間だけには霊魂の存在を認めた。これに対し次の18世紀のラ・メトリーは,《人間機械論》(1747)において人間の霊魂をも否定し,生命機械論を徹底させた。かれもまたゼンマイ時計を比較の対象とした。…
…心と身体を接触させる場所としてデカルトは脳髄の中央にある松果腺を擬したが,生理学的にみて不当である。しかし,この心身の結合のしくみをめぐって,デカルトによって提起された哲学問題は,〈心身問題〉と呼ばれて,人間機械論の中心にかかわる問題として現在に至っている。 18世紀に至り,フランスの医師ラ・メトリーは徹底した唯物論の立場をとって《人間機械論》(1748)という著作を著し,人間を,精神をも含めて,完全に機械であるとする議論を展開した。…
…フランドルの戦闘に従軍したが,45年に唯物論的立場を表明した著書《魂の自然誌》を刊行したため,軍医の地位を失った。3年後,さらにその立場を推し進めた《人間機械論》を発表,人間は機械であり,人間の思考は,脳髄の単なる性質にすぎないと主張した。彼に先立つデカルトは,動物は機械であるとしながらも,精神をもつ人間だけはそこから除外し,動物と人間との差別を強調していたのであるが,ラ・メトリーはこの差別を撤廃し,デカルトの機械的自然観を人間にまで徹底させたのである。…
…したがってどのような機械をモデルにするかによって内容が異なり,時代によって機械論も変遷をとげてきた。哲学で伝統的に〈機械論〉ないし〈機械観〉と呼ばれてきたのは,時計をモデルとする17~18世紀に有力だった機械論を指したので,現在もこの意味で用いられることが多いが,19世紀の機械論は原動機(蒸気機関)をモデルにしていたし,最近の機械論や新しい人間機械論はコンピューターや自動制御機械をモデルにしている。 古代ギリシアにおいてすでに,自然を物質的要素から構成されているものとして見る態度があった。…
…サイバネティックスについてはウィーナー自身2冊の解説書を執筆している。《人間機械論The Human Use of Human Beings――Cybernetics and Society》(1950)と《サイバネティックスはいかにして生まれたか I Am a Mathematician》(1956)である。後者は自伝的なものである。…
…彼はまた生命現象をも機械的に理解し,たとえば動物は一つの自動機械とみなされるのである(動物機械論)。
[人間論と道徳]
デカルトによれば,人間の身体もまた,心臓を一種の熱機関とするきわめて精巧な自動機械にすぎない(人間機械論)。しかし人間は動物と違って精神をもち,しかも本来は実在的に区別されるべき精神と物体がここでは固く結びついて一体をなしている。…
※「人間機械論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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